午後、6畳の部屋は薄暗く、僕はソファに本を置く

本ブログはフィクションですが、一部隠し切れない真実を含みます。

「ゾンビを倒すために最も効率的な武器について」

昼前に喫煙室にタバコを吸いに行ったところ、年下の同僚が煙に目をしかめならスマホを凝視していた。

 

「何してんの?」

 

僕がそう声をかけると同僚はチラとこちらを見、すぐにスマホに視線を戻して言った。

 

「ゾンビの世界で生き抜く方法を考えてました」

 

カーン。

 

イメージの世界で甲高い音が鳴った。それがなんなのか一瞬わからなかったが、ゴングであることにすぐに気付いた。

 

「え。なんて?」

 

「あ、いや、ゾンビに囲まれたらどうしようかな、と思って」

 

 

こいつ、まじか。
僕がゾンビを好きなことを知ってて言っているのか?


コールオブデューティーブラックオプスでゾンビモードにはまってからというもの、ありとあらゆるゾンビものの映画や漫画を消費しまくり、ゾンビが好きすぎてゾンビの仮装をやってたUFJにも単騎突入し、前述のゾンビモードではグリッチなしでスコア世界100位以内(※とてもすごい。休みなしで2日かかった)に入ったけれども、家族や友人にゾンビのよさを伝えても理解を得られず、虐げられてきたこの僕に、まるで無防備で、軽率に、ゾンビについての考察を求めて、ただで済むと思っているのだろうか。

 

そして、僕の中に強烈なイメージが浮かんだ。

~~~~~~~~~~~(イメージの世界)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
若くして無敗のまま世界チャンピオン戦まで上り詰め、史上最高の天才と言われた僕は、山での修行中にクマに襲われた際、命を救われた、宿命のライバルで世界チャンピオン、マハリスと因縁の対決に挑むことになった。しかし、試合前夜、報われない家庭環境から荒れた生活をしていた僕をボクシングの道に導き、公私ともに支えてきた幼馴染でトレーナーのたかこを不慮の事故で亡くしてしまう。絶望に暮れた僕は試合を棄権し、姿をくらました。3年後、たかこの弟でプロボクサーのよしおが世界戦の練習のためモロッコを訪れた時、地元民も寄り付かない場末のパブでゴロツキ共とポーカーに興じていた僕を見つける。よしおは僕に声をかけるが、変幻自在のアイスハンマーと呼ばれた僕の右手は既に握力を失ってしまっていた。よしおは姉の意思を受け継ぎ、僕のトレーニングを始めるが、右手の状況は一向によくならなかった。だましだまし試合を重ねていくが、かつての史上最高の天才の面影はリングの上には見られなくなっていた。再び失意に暮れる僕だったが、町で見かけた、たかこによく似た女性、まさみとの出会いで、少しずつ精神的な強さを取り戻していく。かつてマハリスに救われた山に修行に訪れた際、再びあの時のクマと出会う。絶体絶命の状況に陥った僕だったが、ステップインから最大限に腰のひねりを増幅させ、フックのように死角から、ストレートのような鋭さをもつ、必殺の左パンチを繰り出し、クマを撃退する。その後、このパンチで連戦連勝を重ねる僕だったが、腰へのダメージは深刻で、医者から「あと3発まで」と宣告されてしまう。必殺のパンチを封印し、世界チャンピオンを目指す僕だったが、かつて戦ったライバル達が立ちふさがり、2発のパンチを消費してしまう。いよいよ世界チャンピオン戦目前となるが、世界最長防衛記録を持ち、すでに生ける伝説となっていたマハリスを、よしおが倒し、新世界チャンピオンとなってしまう。よしおとはまさみとのことで対立してしまい、よしおはジムを移籍してしまっていたのだった。そして遂に僕とよしおとの世界戦前夜、まさみについての衝撃の事実を知ってしまう。たかこを忘れきれずふるわなかった僕のためにまさおが世界中から似ている人物を探し、大金を積んで用意した偽りの恋人だったのである。拳を握りまさみの前に立つ僕だったが、その拳が振るわれることはなく、また僕は闇へと消えて行った。

しかし、試合当日、リングの上にはバンテージを巻く僕の姿があった。
必殺のパンチは残り1発あったが、このパンチの致命的な欠陥をよしおは知っており、通用するように思われなかった。
よしおの素早いステップワークから生み出される遠心力の乗ったフックは脅威だが、かつて天才と呼ばれた僕の動体視力の前では止まっているも同然だった。
共に今は亡き、たかこからボクシングを学んだ2人はお互いの戦い方をよく知っていた。
勝っても負けてもおそらく僕にとっては最後の戦いだろう。
レフリーが誘導し、僕ら2人はリングの中央で軽く拳を合わせた。
世界中の100万人の観客はそこに何もいないかのように静かだった。

「終わったら一緒に飲みに行こう。モロッコにまずい安酒を飲ませる店がある」

僕がそういうとよしおがニヤリと笑った。
今、試合のゴングが鳴る。

~~~~~~~~~~~~~~~(イメージ終わり)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先ほど聞こえたゴングはまさにその音だったのだろう。

 

どの世界でも速度は価値であり、最も単純に勝ちに近づく手段である。
高まった僕は開始早々、最後の一発である必殺パンチを撃つような心持ちで華麗にステップインした。

 

「いやね、僕もチェーンソウってどうなの?って常々思ってる訳よ」

 

「は?何言ってるんすか。嘘っすよ」

 

おそらく多くの人が無意識下でも相手がどのように返答するか、のイメージを持っていると思うが、この時の同僚の言葉は僕の想像を遥かに超えたもので、まさに死角からの強烈な一撃だった。
僕はタバコに火をつけるのも忘れて呆気にとられてしまった。
同僚はこちらに一切の視線を向けることなく、スマホをいじっていた。


てっきりAmazonで「現段階で合法的に所持できるベスト武器」の選別をしていると思ったが何か知らないスマホゲーをしていたようだった。

 

一瞬のち、猛烈な恥ずかしさが僕を襲った。
いや、職場の喫煙室で、いい年した大人がゾンビについて語るなんて恥ずかしいことだと思うよ?
けどさ、そりゃ僕ゾンビ好きだしね、テンションあがっちゃう訳じゃない?
むしろさ、こっちは乗ってあげたと言っても過言じゃないのに返答に愛がないのよ。


僕は一矢報いるべく、よろけた体制からとりあえずフォームだけのアッパーをふるうような弱弱しさで言った。

 

「って課長が言ってたんだよね。マジウケた」

 

「えっ?」

 

ついに同僚がこちらを見た。

僕も同僚を見ていた。

怪訝な顔、というwikipediaの項目があるなら是非、参考画像に載せて欲しいと思えるほど、完璧な怪訝な顔がそこにあった。
そうだろう。僕らの所属するチームにはそもそも課長はいないし(※別のチームにはいる)、何よりマジウケたといいながら僕は真顔だった。僕はこの時ほど自分の能力の低さを恨めしく感じたことはなかった。

 

「何が、です?」

 

「えっ、え?」

 

イルカのように僕の目が自由に泳ぎ回っていた。


…ァーン、トゥー、スリー…


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
気づいたら僕はダウンしていた。
開幕直後の奇襲攻撃が完全に裏目に出たのだった。
スポットライトが眩しい。
僕はリングに拳をついて力を入れた。
しかし、つま先に力が入らない。どうも脳が揺れているようだ。
顔をあげると、たかこの姿が見えた。
薄暗い観客席で、たかこのまわりだけが明るく照らされているように見えた。
いや、そんなはずはない。たかこは死んだのだ。
僕はよく見ようと目を凝らした。
あれは、たかこじゃない。ああ、そうだ。まさみだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

僕はタバコに火をつけて充分にゆっくり、煙を吸い込んだ。
そして、フーっとそれは長く、長く煙を吐いた。


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「頑張って!立ち上がって!!」
まさみは大声で僕に言った。
この嘘つきが。どのツラ下げて――
僕は心の中でつぶやいた。
しかし、先ほどとは変わって力が漲ってくるような感覚があった。
レフリーがエイトを数える前に僕は再びファイティングポーズをとった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

果たして、ゾンビが好きで、一人考察を深めることは恥ずかしいことだろうか?
嘘をつくことは常に誤った行いなのだろうか?

色々な面があっていい。
そのすべてを愛せるほど大きいもので包み込んでしまえれば、それでいいのだ。

 

「ゾンビってさ。大量にいるじゃない?いや、だからそもそもあんな大量にいたらどの武器使っても無理だと思うんだよね。だからね。今のトレンドは逃げる。これね」

 

僕は一気に捲し立てるように言った。

 

「…ああ、そうっすか」

フフっと同僚は苦笑いを浮かべると、僕と視線を合わせることなく早々にタバコを消して喫煙室を出て行こうとした。


禁じられた4発目の必殺パンチのモーションに僕はもう、突入していた。

「高校の頃、隣の席に不美人がいて、綺麗になろうとして、周りから冷ややかな目を向けられていた」

高校2年の1学期最後の席替えで、ある女の子が僕の席の隣になった。


その子はおそらく何らかの障害で頭頂部の毛髪が少し薄かった。

そして、そのことを差し引いても美人とは言いがたく、彼女の話声をイメージできない程、無口で目立たない子だった。
彼女にはかなり仲のいい友人が一人がいた。イボガエルを上から思いっきり潰したような顔の、色の白い女の子だった。

この子はかなりおしゃべりで、休み時間ごとに遊びに来ては、昨日見たテレビの話や、なんだかよくわからない事をまくし立てるように話していた。

僕の隣の子は彼女の話を、蚊のなくようなか細い声で「うん、うん」と聞いているだけだった。
はじめのうちは声の様子から嫌々ながら彼女の話を聞いているのだと僕は思っていたのだけど、隣の子を見るとニコニコと、本当に楽しそうな笑顔で頷いて聞いていた。僕にはイボガエルの話をそんな風に聞くことが楽しいようには思えなかったのだけれど、きっとそういうのが好きな子なのだろう、となんとなく理解した。


高校2年の夏はあっという間にやってきて、気づいたら終わってしまっていた。
なんとなく慌しいような生活の中で夏休み明けの席替えが終わり、元々影の薄かった彼女の存在は教室という狭いけれど深い社会の中に同化して、そのうち見えなくなった。

 

僕の中で彼女の存在が再浮上したのは、年を越した1月のことだった。


おろした前髪で多少隠れてはいたが、眉毛が全て無くなっていた。
僕は、なんらかの病気の治療の影響なのかと思った。おそらく他のみんなもそう思っていたと思う。その件について話すことがなんとなく憚られて、最初、誰もそのことを口にしなかった。
だが、その推測は間違いだったのだと思う。
これまで、自分の意見を言うことなく、小さな声で「うん、うん」と頷いていた彼女が、イボガエルと廊下で楽しそうにおしゃべりをしたり、学校指定外のかばんを持ってきたりするようになった。スカートも少しずつ短くなっていった。
おそらく彼女は変わろうとしていたのだ。

 

徐々に彼女は陰で「般若」と呼ばれるようになった。「キモチワルイ」と嫌悪する人も少なからず、いた。ただ、人畜無害な彼女らを表立って迫害するような人は誰も居なかった。冷たい視線の中心で、彼女らは相変わらず平穏な日々を過ごしているようだった。

 

3年になって、また彼女が隣の席になった。
髪の毛をわからない程度に染めたようだ。頭頂部は薄いままだった。
ある授業中、隣でひょこひょこ動くものに気づいた。何かと思って見てみると彼女が椅子に座りながら膝曲げたり、伸ばしたりしていた。
おそらく足を細くするための体操なのだと思う。
僕はあの冬、彼女に何があったのか想像した。
彼氏ができた、のかもしれない。恋をした、のかもしれない。だが、なんとなく僕は、彼女が恋をするための努力を始めたのではないかと思っていた。理由は特にない。本当にただの推測だった。
彼女はきっと、これまでの人生の中で目立たない事が至極当たり前すぎて、今回の自分の変化が周囲から注目されていることに多分、まだ気づいてさえいないのではないか、と僕は思っていた。

僕が彼女の変化に気づいていることを、彼女が気づいてしまえば、それを恥ずかしく感じるかもしれない。そうして今度は目立たないための努力を始めるかもしれない。

僕は結局、高校の3年間で彼女と一度も話をしなかった。

 

それから8年程たった頃、僕は仕事で東京にいた。
職場の後輩がどうしてもというので呑みに連れて行った。
この後輩は大の女好きだったが、残念な事にまったくモテなかった。
2件目は彼の同級生が働いているといるというキャバクラへ遊びに行くことになった。
彼は中々の顔らしく、中へ入るとすぐにVIPルームのような部屋に通された。
後輩は、女の子が席につくのを見計らって「俺のおごりなんでじゃんじゃん呑んでな」と鼻の穴を膨らませながら言った。
先輩と紹介された僕の立場が少し悪くなった気がしたが、ここは華を持たせてあげようと思った。
「あれ、○○くん?」
隣に座った女の子が僕の名前を呼んだ。目鼻立ちの整った綺麗な女の子だった。
見覚えはなかった。
「わたし、ほら、高校の時一緒のクラスだった!」
胸元が大きく開いた赤いロングドレスは、色の白い彼女によく似合っていた。
ただ、少し窮屈そうに見えるほど、大きく膨らんだ胸がぎゅうぎゅうと詰まっていて、彼女のあざとさを感じた。

「わからないかなー」

と、彼女が少し不機嫌そうな声を出した。
ただすぐにニコッと笑いながら彼女は左手を口元に縦に置いて、僕の側に寄った。
耳打ちをするようだ。
彼女は、あの子と仲の良かったイボガエルの名前を言った。
僕は驚いて、少し無遠慮に足先から髪の毛に至るまで彼女の全身をもう一度見直した。
イボガエルに胸があったかどうかは覚えていないけど、顔は確実に別人だった。

「セイケイしたの」

彼女はもう一度、そう僕に耳打ちをした。
整形か。僕は納得して、またすぐに驚いた。ここまで変われるものなのかと。
彼女は屈託なくニコニコしていたので、もしかしたら整形は公然の秘密なのかも知れない。だが、もしものことを考えてその件についてはその後、努めて話さないようにした。
彼女は懐かしむように柔和な態度で僕に接した。でもそれがなんとなく居心地悪かった。

 

 

それからしばらくして高校の頃の別の女の友人と会う機会があった。
僕らは渋谷のオープンカフェで待ち合わせた。しばらくは近況を報告し合っていたのだけれど、何かのタイミングで僕がイボガエルに会った話をした。
目の前の彼女は、ふん、と小馬鹿にしたように笑った。

「なんかめちゃくちゃ整形しまくってるらしいね」


彼女とイボガエルは小中高と同じ学校だったらしく、卒業した後もSNS上でしばらくは交流があったとの事だった。
全く知らなかったがイボガエルはある男性アイドルの大ファンで、彼のおっかけをしていたらしい。
「それがもう大変でさ。そのアイドルと付き合ってるって思い込んじゃったみたいなのよね。テレビで女のタレントと話しただけで、SNSリストカットした手首の写真とか載せたりして」
知識としてしか知らないがそういう子達は世の中に間々いるらしい。
「ほら、同じクラスに仲いい子がいたじゃない。般若とか言われてた。あの子が亡くなってからそういうのがエスカレートしたみたいで」
般若。高校2年生の時、隣の席に座っていたあの子の事だ。顔はすぐに思い浮かんだが、名前が思い出せない。

「それからはすぐに上京したみたい。水商売始めて整形しまくって。アイドル関係で結

構大きな事件もおこしたみたいで、ネットでも有名らしいよ。あの子」

「いつ?」

「え?多分二十歳くらいだったかな。ホントに有名になっちゃったから成人式でも話題だったもん」


「いや、あの…般若って呼ばれてた子が亡くなったの」

「え、んー。1年くらいかな。高校卒業して」

 

 

帰りの電車は遅い時間だったせいか、ポツリ、ポツリと人が乗っているばかりで、ガランとしていた。友人とはその後、共通の知り合いがやっている居酒屋に呑みに行った。東京での生活に大分疲れているようでしきりに地元に帰りたいと言っていた。
僕らは今度、イボガエルの店に遊びに行く約束をした。彼女は「ビックリするかな」と言って、ニシシと意地悪そうな顔で笑った。僕は、「多分君の方が驚くんじゃないかと思うよ」と言って別れた。
僕は誰もいない電車のシートの端に座って、ふぅと息を吐いた。
あの子が亡くなったと聞いてから何度も名前を思い出そうとしたけど結局できなかった。
僕はあの子のことを何も知らない。好きな食べ物の事も、あの時何故あんな突飛な事をし始めたのかも。

 

高校卒業を控えた3学期、僕は殆ど学校に行っていなかった。
秋ごろには早々に進路が決まっていた僕は、卒業するのに充分な出席日数を既に取得していたため学校へ行く理由が特になかったのだ。
ある時、友人と遊ぶ約束があったため図書室で借りていた本の返却がてらに登校した。
私立受験組のために授業の殆どが試験対策か、自習だったので、結局僕は授業を受けずに図書室で本を読んでいた。その時、しん、とした図書室にあの子がやってきた。
あの子は僕が座っていた大机のはす向かいに座った。


僕らは話もせず、視線も合わせず、黙々とそれぞれの本を読んだ。
そしてそれが僕の記憶の中での最後のあの子の姿だった。

 

彼女はその人生でどんな恋をしたのだろうか。なりたい自分になれたのだろうか。
例えばもし、彼女が生きていて今この瞬間に目の前の電車のシートに座っていたとしても、きっと僕は話かけたりしないのだろうと思う。そしてきっと彼女もそうだ。僕らは確かにそういう関係だった。

 

けれど、僕は高校卒業後もあの物静かな女の子のことを時々思い出した。
何かのタイミングで彼女の話を誰かにしようとしたこともあった。
だが、結局誰にも話さなかった。
「高校の頃、隣の席に不美人がいて、綺麗になろうとして、周りから冷ややかな目を向けられていた」
話にすれば、それだけのことだ。
ただ、今思い返してみても僕は確かにあの時、彼女の変わろうとする意思を、とても美しいと感じていた。

僕が名探偵になった話

僕が5年程前に住んでいたアパートはボロい上に駅まで徒歩15分以上もかかる、カスのような住処だった。

それでいて家賃が安い訳でもなく、2階建ての1階は何かの工場で、早い時は平日の朝5時くらいから電動のこぎりで金属のようなものを切っている音がしていた。

 

思い返してみればメリットなんてものは1つもなかったけれど、まあまあそれなりに楽しくそこで暮らしていた。

 
ある日、渋谷を歩いている時に、とても格好いい自転車を見つけた。
赤い塗装がされている折り畳み自転車だったが、デザインがどこか遠い外国の古い街並を爽やかに走り抜けている風で、多分全然説明できていないけれど、とにかくどうしよもなく購買意欲を掻き立てられた。
値段はまあまあ高かったが、あの駅までの長い道のりを彼(自転車)と一緒に走る日々を想うと、とても素敵な気分になった。すぐに買った。
 
それからしばらく、僕はどこに行くのも自転車を使った。
そもそも駅までの道のりを意識した選択だったが、自転車で会社まで通勤するようになった。
こうして自転車を好きになってみると、色々なカスタマイズ部品なども販売されており、いよいよ僕の趣味と言ってもよいほどにハマリ始めていた。
 
そんなある日のことである。
ボロアパートの脇に泊めていた僕の自転車が盗まれた。
ガチガチに鍵は閉めていたのにどうやって盗んでいったのかまったくわからない。
ただ、あれだけ格好いい自転車なので盗みたくなる気持ちだけは多少わかった。
 
だから自転車を盗まれてしまったことは大変ショックだったが、盗人を強く責める気持ちにはなれなかった。あんな風に丸見えの駐輪場にそこらへんのママチャリと同じような感覚で管理していた僕が悪いのである。これは未必の故意でなのだ。
この道を普段よく通っているだろう盗人に、鍵以外の防犯対策がされていない素敵な自転車を放置しておくことで僕が誘惑してしまったのだ。なんとも罪作りな男である。
 
その日、僕は仕事を休んだ。
有給もたっぷりあるし、何より、もうすでに僕は自転車がなくては通勤できない身体になっていた。自転車など数ヶ月前は持っていなかったのだから、数ヶ月前の状態に戻っただけだと考えれば理論では納得できるが、心はそう思っていない。
僕は一度幸せを知ってしまったことで、それを失ったこの現状を不幸と感じたのである。心というのはややこしくてめんどくさいと思った。
上司にもこの心の在りようと幸せについて、そのままに説明しようと思ったが、部下から、詰まるところ「自転車を盗まれたので休みます」という意味の突然の欠勤理由を報告される心情を思うと、悲惨だったので適当に仮病とした。
 
さて、問題は自転車泥棒である。
僕は警察に届け出る前にまず、犯人を推理することにした。
 
[推理1] ★犯人は付近の住民
これはおそらく間違いない。そもそも「付近」というのがどこら辺までを言うのか知らないけれど、数万人程度には犯人を絞り込めたと思う。
 
[推理2] ★自転車は今、室内にある
自転車泥棒なんてものはだいたい寸借の延長上にあると思う。
ちょっと借りるね、そこ等へんに乗り捨てておくから拾いに来てね、のような感じである。ただし、それは鍵を閉めていない自転車や、ママチャリなど安価な自転車に限る話である。
僕の自転車は超イケイケのクールガイだった。
人間の心理としては寸借する際、丁寧に管理された自転車より鍵のかかっていないボロチャリを選択するはずである。
そう考えると今回の泥棒は僕の自転車を狙い撃ちした可能性が高い。
つまり、所有欲を満たすため、もしくは転売目的なのではないだろうか。
と、すると、盗んだ自転車を少なくとも一定期間は保管しておく必要があるはずである。
犯人の心理からすれば、特定される可能性が高い、自宅の駐輪場に泊める訳はなく、自宅の室内、もしくは駅前などの公衆駐輪場(目につきにくい立体駐輪場などは更に良し)に泊めている可能性が高い。
僕の自宅から半径2km以内には大きい駐輪場が3つ程あるのでまず捜索をすべきはそこであろう。また、ネットオークションなどを検索しておく必要もある。そこで僕が落札なんかした日には超展開である。
 
[推理3] ★犯人は成人もしくは大学生
僕は当時だいたい20時ごろに帰宅していた。
それよりも遅いことも多々あったが、犯人があのカッコイイ自転車がここに泊めてあることを知るにはやはり犯人もそれ以後に帰宅している人物と見るのが正しいだろう。
ただし、休日など終日泊めている日もあり、さらに自転車の窃盗集団である可能性、自転車を盗もうと発想するに至るには、別に一度見れば十分であることを考えると必ずしも言い切ることはできない。
しかし、家族に見られず自転車を保管したり、転売の準備をすることを考えると一人暮らしの成人である可能性が高いと思われる。
 
 
この辺りでコーヒーを淹れて、セブンスターに火を点けた。
寝巻きと寝癖のままだったが、ハードボイルドな探偵の気分になっていた。自然と顎に手を当てていた。キッチンのすぐ向こうの塀の上でスズメが数匹、ピチュピチュ鳴いていた。
 
 
[推理4] ★犯人は未明3:00~6:00の間のアリバイがない人物
昨夜はゲームに夢中になって夜更かししてしまった。
オンボロアパートの壁は薄いのであれだけ頑丈そうなチェーンロックを断ち切るようなことをすれば異変に気付くはずである。
だいたいこの夜更かしが原因で寝坊してしまい、めんどくさくなって欠勤したのであって自転車が盗まれたことと欠勤には本来、ごく薄い因果関係しかない。ゲームはほどほどにしなければいけないと思う。
6時頃には結構明るくなるので、実際は3~5時くらいを犯行時間としてみるのがよかろう。
 
[推理5] ★犯人は比較的時間の自由がきき、裕福ではない人物
そもそも素敵な自転車を見つけても、深夜に起きてわざわざ泥棒を働くのは、割に合わないように思う。
持ち主のところを尋ねてどこで買ったのか質問し、通販でもなんでもすればよい。
しかし、持ち主が僕というのは犯人からすればわからないのでこのオンボロアパートの一戸一戸を尋ねて廻るのは、ちょっと異常なように感じる。
むしろ、無精ひげを生やした脂ぎった野郎がそのように尋ねてきた場合、通報すると思う。
ならば、どこに記載されているのかは知らないけど多分自転車の型番のようなものが刻印なりなんなりされていると思われるので、それをネットで調べるのがよさそうだ。
しかし、どこに記載されているのか、持ち主である僕すら知らないのだからパッと見ではわからないところに記載されている可能性が高く、調査には時間がかかるかもしれない。
深夜に他人の自転車を撫で回しているところ見つかっても怪しまれない人物であれば、前述の住人を尋ねまわる方法をしていればよいので、多分そもそも見た目が怪しい場合は何をやっても通報される可能性が高い。
と、するとやはり普段から清潔を心がけて生活すべきだな、と思った。
 
[推理6] ★犯人は初犯でなく常習的に泥棒をしている可能性が高い
あんなごつい鍵(1万以上した)を外すのは、相応の道具が必要である。
つまりそのような道具を使用する仕事に就いている、もしくは常習的に自転車泥棒を行っている可能性が高い。
それに、要領が良すぎる。犯人は慣れているのである。
僕の住んでいたその地域は工業系の仕事についている人が多いので、街を歩く人全てが疑わしい。再犯の可能性が非常に高いと見做し、事前に周辺のイケてる自転車をリサーチすることによって犯行の現場を押さえることができるかもしれない。
 
と、そこまで考えたところで僕の中で突然、思考の大きな渦が巻いた。
今日までの様々な出来事がぐるぐると巻き込まれ、その中に僕の推理がまるでミルクのように数滴落ちた。
 
そして、はっ、とした。
 
犯人がわかった。
これまでのプロファイルに合致する上、考えれば考える程この解答しかないと思える人物が確かにいた。
 
気付くことと、気付かないことは距離で離され、区別されている訳ではないのだろう。おそらくこの二つのことはごく至近にあり、その間をかえるの卵ほどの薄い皮膜が仕切っているだけなのだ。
僕はいつの間にか、浸透するようにあちら側へ移動してしまっていた。そして散らかった情報が収束するたった一つの終着点へ行き着いたのだ。
 
この時、アニメや漫画に出てくるような子供探偵ではなく、煙草とウイスキーが似合うハードボイルドダンディ探偵の気分だった僕は、煙をいっぱいに吸い込むと、「やれやれ」という様子で小さく一言呟いた。
 
「終わったよ、何もかも」
おそらく、相当格好よかったと思う。
 
僕は清潔な身なりに着替え、玄関を出るとアパートの階段をゆっくりと降りた。急ぐ必要はまったくない。ゆっくりと、ゆっくりと行けばよい。
 
音はまだ、聞こえている。
 
そして一階にある、何かの工場を訪ねた。
水色の作業服を着た二人の工員が大きな鉄の筒のようなものを、火花を散らしながら電動のこぎりで切断していた。
しばらくそこで彼らの動きを観察していると一人が僕に気付き、作業の手を止めた。
 
「こんにちは。上の階に住む者です」
 
「あーすいません。うるさかったですか?」
 
工業用のマスクを外した彼は長身でなかなか爽やかな見た目をしていた。
僕はすぐに応えた。
 
「いえ。問題はそこではありません」
 
「?」
 
近所に住んでいること。僕の自転車を毎朝見ていたこと。鍵を切断するまでの間、一時的に隠す場所があること。更に切断するに事足りる電動のこぎりや様々な工具があること。五時前には出勤しており人目につきにくいこと。少なくともお金持ちには見えないこと。
 
毎朝、出勤する度に黒い欲望をメラメラと燃やしていたんだろう?
 
僕はまた「やれやれ」といった様子で言った。いや、むしろもう「やれやれ」も言ってしまったかもしれない。
 
「…事の起こりは駅からこのアパートまで遠い事でした。僕は1台の自転車を購入したんです」
 
そこで、ジッと彼の目を覗き込んだ。彼は慌てて目を逸らした。
 
「そして、盗まれたんですよ。自転車が」
 
「はい…」
 
彼がおびえたような目で僕を見た。
僕は次の言葉まで、たっぷりと時間を置いた。
彼の中で走馬灯のように駆け巡っているだろう、これまでの当たり前の日々は、今日ここで終わってしまう、いや、僕が終わらせるのである。
それならば、せめて最終宣告を行う僕も、彼のこれまでのささやかな幸せに思いを巡らせよう。
 
が、現実は非情で、唐突に終わりを告げるものだ。
 
 
 
 
「犯人はこの中にいる」
 
 
 
 
 
さて、結論を言うと、犯人は別にいた。そして今も捕まっていない。
つまり、彼らはテンションが上がってどうしよもなくなった僕に全くの濡れ衣を着せられた被害者である。
僕が彼らを犯人扱いした後、彼らは全く認めず、「ちょっとこいつやばくね?」という感情を、大人でくるんだような対応をした。
僕はまだまだ十分に彼らを疑っていたし、他人にあんな冷たく諭されるような態度を受けたこともなかったので結構ヘコんだ。
その足で駅前の回転焼きを買いに行ったところ、真犯人に盗まれ、駅前の駐輪場に乗り捨ててある僕の自転車を発見した。鍵は切断されておらず、ハンドルにかけられていたところを見ると昨晩、僕が閉め忘れていたように思われる。
 
 
僕はそれから、その自転車に三年ほど乗ったが、最後はまた誰かに盗まれてしまい、結局見つからなくなってしまった。
九州に帰ってきた今となってはもうあのアパートは物理的にも感情的にも遠い場所にあるのだけど、今でもボロアパートの一階で作業をしていた二人を思い出すと、ちゃんと謝れていないという苦い気持ちと、あの時の妙なテンションを思い出して、きゅんっ、とする。
 
 

そばはのどごしという人もいるが、僕はあくまでよく噛みたい派

僕はそばが好きだ。
 
ただし、好きなものを聞かれた時、一番最初に「そば」が出てくる程、好きな訳ではない。しかし、間違いなくそばが好きである。
 
うどんか、そばか、らーめんか、と聞かれれば、らーめんなのだけれど、一番頻繁に食べているのはそばだし、具のないらーめんには夢がないが、具のないかけそばには期待を持てる、程度にはやはりそばが好きである。
 
ざるそばも好きだし、東京のそばだしの黒さには辟易したけれども、それでもかなり頻繁に食べていた。健康を意識した訳ではないし、コスト的な問題でもなかった。
ただ、その時そばが食べたかったからそばを選択し続けてきただけのことである。
 
そばのトッピングは何がよいか、と言われてもベストが決められないのは、別になんでもよいからであって、そば粉の割合は何対何が好きか、と聞かれても、あまりよくわからない。意識したことがないし、そもそもそんなに興味がない。
 
結局、僕はそばに対して過剰な期待をしていない。まあまあでよい。
 
だから、当時まだ恋人だった妻が僕の誕生日に、わざわざそばの有名店に連れて行ってくれたときも、それなりに嬉しかったが、違和感ばかりが残った。
そばというのは誕生日のような特別な日に食すようなものではないと感じているのだと思う。駅の改札付近にある、トイレ臭くて埃っぽいようなそば屋にも別に嫌悪感を持たない、というのが、僕の中のそばの認識である。
 
こんな事を言えば、「こいつ別にそば好きじゃないじゃん」と思われるのだろうけれど、そもそも妻がそのように心配ってくれたのは、僕が毎日そばを食べていることに気づいたからで、僕は特にそば好きをアピールした覚えは1度もない事を鑑みると、やはりある程度一緒にいればにじみ出てしまうそば好き感があったからなのだと思う。
 
そば好きであるのはまず、間違いないと思うが、周りを見渡した時にそば好きとしての志が低いか高いかと言われれば、やはりこれはどうしようもなく、志が低いことを認めざるを得ない。たまに、そば好きであることを「徳」のように感じているようなおっさんがいるが、馬鹿にしている訳ではなく、単純にすごいと思う。色々語ってくるし、彼らが言う、通な食べ方をしてみると、実際うまい。
 
そうしてうまい食べ方を知っているのに、それを継続しない、更にうまい食べ方を研究もしない僕なんてものが、そば好きを語るのはおこがましいとさえ感じる。
 
自意識としてもそのようなものだから、これまでの人生でそばが好きであるということを自ら進んで他人に話したことがない。
 
だから、母と妻くらいは知っていると思うが、多くの友人や知人は知らないだろう。
僕がそばを好んで食べる事は、僕のアイデンティティではないが、傾向としての事実である。
 
それなのに、つい先ほど同僚に、「よくそば食べてるよね。すきなの?」と聞かれた折、「え。別にそうでもないですよ」と答えてしまったのである。
 
なんとなく自分のその発言に衝撃を受けてしまって、それから今まで、生まれて初めてそばについて考えたのだけれど、客観的な意見としてはやっぱり好きなんじゃないのか、いや、ただ、程度は他人と比較してみないと計り知れんぞ、と考えた訳である。
 
けれども自分と言う絶対値がありながら、他人と比較する理由がどこにあるのか、傾向的によく食べているなら、好き、で間違いないんじゃないか、とも思える。
 
そこで、本当につい今、質問をしてきた同僚にそばが好きか聞いてみた。
「うん。まあ好きかな」
これまでこの同僚を観察、していた訳ではないが、とりあえず見てきた中では、彼がそば好きである様子は微塵も感じなかった。そう考えると案外、ものの好き嫌いというのはもっと気楽なものなのかもしれない。
 
だが、それまで唯一つの波紋もなかった僕の思考の地底湖に、たった一言でこれだけの大波をたたせておいて、そんな簡単にそば好きを名乗らせんぞ、と思った。
 
 

世界最強レベルの妻を持つということについて

僕の妻はかなり気が強い。

 

僕も全人類の上位数%に入るほど気が強いと思うが、僕が妻に接した際、遥か強大な力の差を感じる事を考えると、彼女に至っては少数点以下に属する、選ばれし者なのだと思われる。
 
僕がこの話を誰かにすると、「え。そんな風(気が強そう)には見えないけどなぁ」などとほざき抜かすので、力のある者同士でしか感じ得ない、力の差というものがやはりこの世には存在しているという事を再認識する。少年漫画でよくある、強くなって初めて敵の強さを理解するというアレである。
 
また、ある人にこのことを話すと「女なんてそんなもん。結婚したら変わっちゃうのよ」などと言うのである。
これに関しては誓えるのだが、僕の妻は結婚前から気が強かったし、結婚したから変わるのではなく、二人の関係性が変わったことでその女性という多面体の見る角度が変わっただけのことである。
 
つまり元からそういった一面を持っていたと見るべきであり、後から「こんな人だと思ってなかった」だの言うのは本人の考慮不足、事前調査不足であると言える。
 
そう考えると僕は知っていながらに、自ら茨の道を踏み込んだ冒険者であるのだ。
 
いや、そもそも気が強いということをまるで負の要素であるように僕は書いているが、一概にそう思っている訳ではない。確かに喧嘩をすると大抵僕が負けるし、大体泣かされて、ものすごく悔しいが、可愛いところもある。
 
妻の主な情報の入手源はoggi(雑誌)、クックパッド、知り合いからの伝聞である。
僕からすると、ここから入手した情報で普段生活できるような気はしないのだけれど、妻はそれで上手くやっているし、料理はくそまずいが、まあ多分そんなものなんだと思う。
 
ただ、そんな状態だからこそあまり難しい言葉を知らない。例えば、家を探していた時も、「それは不動産屋側の瑕疵(カシ)だから保証するように言って」と伝えると、なぜかお菓子を持って帰ってきたことがある。どんなやり取りをしたのかはわからないが、まず間違いなく瑕疵を菓子と認識したのだと思う。
 
そんな事を度々やらかすので、僕はその度に目を半分程閉じ、唇の片方をプルプル震わせていた。
何をしているかと言うと笑いを堪えているのである。
妻は最強に気が強いので、気が強い界の遥か格下である僕が指摘すると怒る。
だから僕は妻を指摘しない。黙って笑いを堪えるのである。
 
妻的にも薄々、僕の姿勢には気づいたようで、次第に、難しい言葉を覚えると僕に報告するようになった。それも、あからさまに言うのではなく、普段の会話を装って言ってくるので、彼女には悪いが、また笑えるのである。
 
ある夜、まだ当時恋人だった僕らは食事に出かけた。
電車に乗るとちょうど帰宅ラッシュに巻き込まれてしまい、車内は超過密状態だった。その時、家の鍵を閉め忘れていないかと、ふいに僕の頭の中に疑念が沸いてしまったのである。
 
そのことを静まり返った車内で妻に伝えると、彼女はなぜかしばらく黙り込んでしまった。そしてすぐ、勝ち誇ったようにニヤリと微笑み、かなり大きな声で言った。
 
「それって。アレでしょ?ほら。イチモツの不安!」
沈黙した羊の群れのような人だかりの中、彼女の声は閃光のように響いた。
指摘しない、という姿勢は絶対ではない。今回のように宙空に核兵器が漂っているような危険な状態であれば、被爆を覚悟で、僕は立ち向かうのだ。
 
「うん。一抹の不安だね。イチモツだと大分、意味変わってくるからね」
 
僕がそう言うと少しの隙間もない車内からクスクスと笑いが漏れた。
 
まだ、当時恋人だった女性が恥ずかしそうに笑った。僕も笑った。24歳の冬だった。