午後、6畳の部屋は薄暗く、僕はソファに本を置く

本ブログはフィクションですが、一部隠し切れない真実を含みます。

20代の夫婦が高級外車を買った結果wwwww

僕と妻はそれぞれ1台ずつ車を所有している。


僕らが住んでいる地域では電車は30分に一本程度しか通っていないので、ごくあたり前、というよりそれしか選択肢がない。


東京からこちらに越してきた直後は電車もあるし、自転車でよくないか、と話していたんだけど、ある雨の日に自転車で通勤し、この世界の理不尽に気付いたらしい妻からの強烈なプッシュによって国産のコンパクトカーを新車で購入した。

 

僕は電車通勤でかつ、駅も近かったことから、特別に必要であると感じたことはなかった。

しかし、そこから更に引越し、駅が遠くなったことで、僕もある雨の日にこの世界の理不尽からの洗礼を受け、2台目の購入を決意した。


その頃には僕達の生活も安定し、収入もそこそこあったので、僕らの好みである大型のSUVを購入しようかと話した。しかし、本当のことを言えば、僕としてはまだ冗談半分程度の軽い気持ちだった。大型のSUVの新車はかなり高い。維持費もとんでもないと聞く。

生活と天秤にかければ分不相応、とは言わないまでも、プライオリティは低いとすぐにわかると思っていた。


だから、ある休みの日に試乗に行こうと誘われた時は驚いた。行くのは全然問題ないし、試乗もいいが、あれ、本気だったのか、と。

知らない人もいると思うので説明しておくと、僕の妻は最強に気が強いので、ここで行かないという選択肢をとった場合、とんでもないことになる。モラルハラスメント?ああ、あの四天王でも最弱のヤツの話ね。


ここでの正しい対処とは、「彼女自身が現実を直視し、さすがにここまでは必要ではないと気付くこと」である。二つ返事で日本を代表する車メーカーの販売店へ向かった。


試乗してよかった、と思った。

正直、ちょっと違った。もちろんいい車ではあるのだが。日本を代表するメーカーを代表する大型SUVと言えば、車好きな人はわかると思う。

それと、それのマイナーチェンジモデルと言えばいいのだろうか、少しコンパクトになったモデル、そしてその年に販売終了が告知されたデザインが可愛いSUVに試乗した。

前2台は乗り心地はとてもよかったが前面からの見た目が好みではなかった。

最後の1台はデザインは好きだったが後部座席が狭すぎるのと、フロント部分が独特で視界がよくなかったため断念した。

 

そもそも、僕らの生活で未舗装の山中や岩山を走るような機会はないので、オフロード性能はそこそこでよい。ビーチからジェットを引く機会はあるが、馬力的な部分で言えば軽の4駆でもまったく問題ないので、デザイン以上にSUVに乗る理由がない。
ならばSUV以外も検討すればよい、という意見があるのはもっともだが、キャタピラの方が合理的なはずなのに、この世に2足歩行の巨大ロボットアニメが蔓延していることを思えば、見た目がかっこいい、は十分に存在する理由になりえると思っている。
しかし、今回の場合はそのデザインが不満点を超えてこなかった。

 

ついてくれた営業の人に、やんわりとその旨を伝えると、「まぁ最初から君達みたいな若い夫婦が買う訳ないと思ってるけどね」的な雰囲気を出されたのは心外だった。被害妄想なだけであってほしいが。


改めて今一度伝えたいのだが、我が妻は最強に気が強いので雰囲気だけであっても他人からそのような態度を取られた場合、必ずキレる。


昔、某ネズミの海に行った際にトイレに行って、なかなか戻って来なかったので探しに行くと、肩がぶつかったらしい女子高生と喧嘩をしていた。
あそこは魔法の国なので、物理攻撃は無効化されるものだとばかり思っていたが、彼女においては暴力さえもファンタジーであるのだとその時知った(※実際は平和的解決をしております)。

 

僕は彼女がキレていることに気づいていたが、知らないふりをして車に乗って帰ろうとした。

「あれよりいい車って何?」

ドアを閉めようとした時に妻が言った。
ごく当然にその時の僕は首根っこを掴まれた濡れた子犬のような状態だったので、とても素直に回答した。

「国産のSUVではトップクラスだからねー。
外車とかになるんじゃない?」

「かお」

「かお?」

何を意味しているのかわからなかったため、聞き返しながら妻を見た。


妻は、車を出せ、と顎でサインした。

外車の高級SUVを買うぞ、ということである。

 

シューター系のゲームの上手さを測るための基準は結局、勝率ではないかな、と思う。
しかし、勝負となった時に勝率が高い方が必ず勝つわけではないように運もあれば、気分もあるし、仲間の状態、相性なども影響して勝ったり、負けたりはあると思う。
プレーヤースキルという意味で見るとその要素は様々存在する。
エイムの上手さ、立ち回り、状況把握/予測能力の高さ、仲間に対しての働きかけ方など。

 

これはゲームに限らず、仕事でも言える。

仕事の評価の絶対値が売り上げであったとしても、個々の能力については処理の早さもあれば、発想の独創性、人間関係を上手く取り持つ人など、評価されるべき項目はいくらでも存在して、それが一つ一つは薄くとも、何層にも重なって結果につながることが有り得る。

 

そう、とにかくこの世のほとんどのものが、色んな要素を勝ちや価値に変換することで結果となり、誰かから評価される仕組みとなっている。

 

しかしこれが、人生の生き方ということになると、途端に評価が難しくなる。
最終的な結果はみんな等しく、死、であるはずなのに。
人生というものは結果ではなく、過程が重要であるのかもしれない。
どのような道をどの瞬間に歩いたのか、そしてその軌跡はどうだったか。
けれど結局、一人の人生をみんながそれぞれ評価しようとしても、見る人によって大きく変わってしまうだろう。
それは、生きている意味、という絶対的な評価基準が一人、一人異なるからだ。


あれからもう3年くらい経つのだが、未だに当時買った車のローンを支払っている。
親族からはとても怒られた。
いや、わかる。ごもっともだ。
バカ、と言われるのもとてもわかる。その通りだ。

 

もし、同じような境遇の夫婦があの車を買おうとしているなら、普通に考え直すようアドバイスする。そしてリッター8kmくらいしか走らないことを伝えたい。あと、海外旅行は当面先になることも。

 

ただ、選択としての後悔はほぼない。
何よりとても気に入っているし、若いうちにあの車に乗る、ということにとても価値を感じているからだ。今は今しかないので、後からなんて取り戻すことは絶対にできない。

若気の至りという言葉があるが、逆に、若くなければ至れないともいえるので、何に価値を感じるか、他人に迷惑をかけないのであればそれは自由だ。
だから僕はとても満足している。あの車が僕の人生を生きる意味であるというつもりはまったくないが、僕達の価値観に従順でいられたことに。

 

唯一の後悔、というか不満点、というか妻への愚痴を言うとするなら、僕の車を買いにいったはずなのにその車は主に妻が乗っているということだ。

 

結果、妻の職場では僕は年上の医者ということになっている。