午後、6畳の部屋は薄暗く、僕はソファに本を置く

本ブログはフィクションですが、一部隠し切れない真実を含みます。

もしもあの頃に戻れたら

ある夏、僕は地元の海を目指した。

そもそものきっかけは僕がジェットスキーの免許を取ったことで、その話を聞いた、高校の頃の友人から海でキャンプをしようと誘われたのだ。

 

東京での仕事は相変わらず忙しかったが、その時ちょうど大きいプロジェクトが終わったところで、同僚や上司からも休みを勧められており、本当にたまたま、まとまった休みが取れそうだった。

 

同棲していた彼女も同じ地元なので、一緒に少し早めの夏休みを取って帰省しようと提案したが、休みが取れないとのことで、僕1人での帰省となった。

 

「あたし、熱っぽいし、お腹痛いし、ちょっとしばらく仕事休まないといけないかも」

彼女は、テキパキと僕の荷造りをしながら、出発する前日にもそう言って、いたずらっぽく笑った。

 

僕達の地元は海に面した小さな地方都市だ。

東京でしばらく暮らした今でこそ当たり前にそんな風に他人に説明できるが、少なくともあの街にいた頃はそれが本当に小さなコミニティーであることや、当たり前に海が見られる環境が特別であると感じたことも、考えたことさえ、なかった。

 

地元に最寄りの空港を出ると地下鉄に乗った。

平日の午前中だったが夏休み中の大学生なのか、まばらだが結構な乗客があった。電車の中で聞く方言がとても懐かしい気がした。僕はスマホも出さず、電車のシートでその雰囲気にしばらく没頭した。

 

東京での生活はなんの無駄もなく、実に合理的だった。僕らは都市という一部の中に組み込まれて、移動し、働き、決められた時間内で流れるように味のない食事をした。東京という大きなシステムの中で僕は立派にその役割を全うしていた。

ただそれを自分の生き方だと思ったことが一度もないだけで。

 

気づくと眠ってしまっていた。

いつの間にか地下鉄は地上に出て、曇り空で鈍い色の海沿いの路線をガタゴトと大きな音を立てて進んでいた。

大きな緩いカーブで先の車両の座席が見えたが、もう殆ど人は乗っていなかった。

どこから来たのか子供が1人、僕の前のシートに座って律儀に靴を脱ぐと窓から海を眺めていた。

僕もその子と同じように目線を上げると、湾曲した海岸線の先に僕の育った街が見えた。

 

数年ぶりの帰省だった。

 

「で、俺言ってやったんすよ、俺の女だから、って。やばくないです?マジで俺イケてる、とか思って」

駅を出ると満面の笑みで後輩が僕を待ち構えていた。

 

彼は嵐のように僕の小さな荷物をひったくると、無駄な装飾がなされたワゴンタイプの軽自動車の後部座席に投げ捨てて、きつい芳香剤が香る助手席に僕を押し込めた。

そして堰を切ったように会わなかった数年分の彼の人生語りを始めた。

要約する必要もないと思うがとにかく童貞ではなくなったことと今はかなり美人の彼女がいること、そしてその彼女が別の男に言い寄られているのを阻止したとのことだった。

彼女の写真も見せてくれたのだが僕に向けたスマホの画面が近すぎて結局ピントが合わずよくわからなかった。

ただ僕はそんなことよりも狭苦しい車内に設置された巨大なモニターや、人を殴り殺せそうシフトレバーなど他にも見るべきところがたくさんあって、その物珍しさに逆にときめいていた。

 

「で、アレっすか?3ヶ月くらいいるんすか?」

「いや、3日はこっちであとは東京戻ろうと思ってるよ」

「やっべー地獄ー」

 

この後輩がなぜ僕を慕ってくれているのかは知らないが一時期一緒に住むほど、僕達は仲が良かった。今回の帰省では彼のたっての希望で彼の一人暮らしのアパートに僕を泊めてくれるそうだ。

と言っても荷物を置いたらすぐに友達と合流してキャンプをする予定だったので殆ど荷物を置かせてもらうだけだが。

 

「え?俺も行きますよ?無人島キャンプですよね?休みとりましたし」

「え?無人島なの?いや、聞いてないんだけど」

 

後輩との話で初めて知ったのだが今回のキャンプは無人島でするらしい。俄然楽しくなってきた。

 

僕は水着を持ってきてなかったので近くの衣料品店に連れて行ってもらった。なんでもいいので適当な物を買おうと思った。

駐車場について、車を降りた時に気づいたのだが、この車、Hのマークのメーカーなのに、何故かLのマークになっていた。

 

 

「あそこの海の家にみんないるんすよ」

海に着くと、後輩が張り切って僕を案内してくれた。


「おおー久しぶりー」

高校の頃の同級生が3人と、見たことのない人たちが数人いた。

聞くと、彼らは同級生のうちの1人の会社の上司や先輩で、ジェットスキー仲間とのことだった。

ここのところ数年は毎年夏になるとこのメンバーで集まってジェットスキーをしたり、キャンプをしたりして遊んでいるそうだった。僕が挨拶をするとみんな日焼けで黒光りした笑顔で迎えいれてくれた。


「今日平日ですけど、仕事大丈夫なんですか?」

友人の会社の上司がいると聞いてから僕は気になっていたことを単刀直入に聞いた。


「うん。俺達今日は愛知に出張だから」

もちろんここは愛知ではないので、サボっている、ということだ。

悪い人たちではなさそうだと思った。


今日のキャンプの準備を手伝ってくれたそうで、もうすでに島に荷物などは運び込んでくれているらしい。

ジェットスキーはその仕組み上、海上の浮いたゴミなどを吸い込んで動作不良を起こすことがあるのだが、もし、無人島に停留させて動かないようなことになったらまずいので僕達を数台で送り届けたらまた戻ってきて明日改めて迎えに来てくれるとのことだった。


「え。なんか申し訳ないです。マジでありがとうございます」

「いいよ、気にしないで。あいつの給料から俺達の日当分ひいとくから」

ガハハ、と嫌味なく笑った。


諸経費は後で清算するとして、とりあえずみんなに飲み物をおごろうと海の家の店舗となっているトレーラーハウスに向かった。

だいぶサビがきているようでもう数年以上、その場所から動いていないように見えた。


しかし、かけられたタープやパラソル、使い込まれたチェアなどがビーチの雰囲気と馴染んで、とても居心地良さそうにも見えた。

曇っていた空はところどころ切れ間が出来て熱光線が差し始めていた。

 


「すみませーん」

薄暗くなったトレーラハウスの室内のフライヤーの前に女性が屈んでいた。

僕が声をかけるとすっと立ち上がりこちらに顔を向けた。

 


「あ、久しぶり」

彼女ははにかんだような顔でふわりと髪を揺らした。茶色の大きな瞳に白い肌。細くて柔らかそうな髪。少しも変わっていなかった。

 


彼女は中学の時の同級生だった。

 


彼女のことを思い出すといつも、光の中で茶色に煌めく髪の毛のことが浮かぶ。

彼女がよく窓際に立っていたからだと思う。

単純にそうするのが好きだったのだろう。窓際のサッシに手を置いて特に何もない中庭を見ていた。

彼女の髪がサラサラと風に揺れて一本一本が溶けるように光と同化していた。

そうしている時、彼女はあまり喋らなかった。

僕はその様子を見ているのが好きだった。

 

 

「え、あ。働いてるの?ここで」

「ううん、今日だけたまたま。あ、こっちに書いてね」

彼女はカウンターに無造作に置いてあるメモ帳を目線だけで指した。僕はそれに飲み物のオーダーを書いて渡した。


「昨日みんなでお店に来てママに海の家開けてってお願いしに来たんだよ」

 

彼女の話によると、僕の友人とその会社の仲間たちが普段、平日は開けていない海の家を開けるよう頼みに来たらしい。ママ、ということはおそらく飲み屋のことだろう。

つまり、彼女が働いている飲み屋のママがここのオーナーで、そのママの店に昨日みんなが来たのだと思われた。

彼女は飲み物を作りながら僕と目線を合わせずニコリと笑った。


「なんかほら、高校の時、あの人と一緒にバンドしてたよね?だから東京に行った友達が帰ってくるって聞いて、あたし、ピンと来たんだよね」


友人達の方を向くとなぜか相撲を取っていた。確かに僕はあの中の同級生の1人と高校時代にバンドをしていた。

 

ふいに、彼女が僕の名前を呼んだ。

僕が振り返ると、飲み物が載ったトレイを渡しながら彼女が言った。


「おかえり」


胸の奥がギュッと締め付けられた。

 


僕と彼女は中学2年の1年間だけ同じクラスだった。

僕はそこの転入生で最初に座った席の隣が彼女だった。

今から思い返せば、一目惚れだったのだと思う。僕は最初から彼女に強く惹かれていた。僕にとってはとにかく初めての感情で何をどうしたらよいのかまったくわからなかった。

だから僕はできるだけ普通に接するように心がけていた。気付かれないように、慎重に。


事実だけ見れば僕達は特別に仲のいい二人とは言えなかったと思う。たまに話すクラスメイト。それが客観的に見た僕達の間柄だった。

 

 

僕はてっきりすぐに無人島に渡るものだと思っていたが、友人の上司が楽しくなってしまったのか中々、動き出そうとしなかった。

そのうち、バナナボードを膨らませ始め、男だけの危険なクルーズを始める、と宣言した。毎年海の家に集まっている友人達はすぐにライフジャケットを脱ぎ、不参加を表明した。

なんだかとんでもないことが始まるようだ。

僕はその雰囲気を楽しんでいるフリをしながら、隣に座る彼女のことをずっと考えていた。

僕達以外にも数人のお客さんがいるようだったが、特に用がない限り、彼女は僕達のテーブルで何と言うこともなく話を聞いていた。

 

 

彼女は校内でも美人で有名な女性だった。

普段、派手目なグループにいるにも関わらず、割りに無口で、何かあっても遠くから眺めて微笑んでいるだけ、のようなところがあった。

しかし、おしとやかな女性、という訳ではなかったと思う。

クラスの中で少数派だったとしても自分の意見ははっきりと発言していたし、そしてそれで対立してしまったとしても物怖じする様子は見られなかった。


僕が彼女に惹かれたきっかけは確実にその見た目の美しさだったが、僕は彼女の内面も凛としていて素敵だと思っていた。

中2の僕は密やかに彼女への想いを発酵させていっていた。

 

「おーい」

友人が海の中から僕を呼んだ。

後輩はまだ水着に着替えていなかったが何故か友人と海の中におり、普段着のままビショビショに濡れていた。

友人の会社の先輩達はウインドサーファーがいない沖の方に出て、信じられない速度でバナナボートを引いていた。

「免許とったんだよね?なんか海の家のお客さんがジェット乗りたいらしいから、アレでちょっと回ってあげてくれないかな」


トレーラーハウスの方を見ると中学生くらいのカップルが僕を見ており、男の子の方がヘコッと頭を下げた。


ジェットスキーしか運転できない、特殊小型船舶免許は他の船舶免許と比べると安価で簡単に取得できる。しかし、試験でも殆ど実技がないことから免許取り立ての僕ではまだ人を乗せるのが不安だった。


僕は中学生に少し待ってて欲しいと、伝えるとライフジャケットを着て、慣らし運転をしようと思った。

すっ、とどこから来たのか彼女が僕の腕に自分の腕を絡ませた。

ライフジャケットを着て、フフフと笑った。

どうも一緒に乗りたいらしい。


「お店いいの?」

「んー」


目配せすると、意図を汲み取った友人がトレーラーハウスの方に向かって歩き始めた。友人を後追いした後輩が中学生カップルを冷やかす声が聞こえた。

 


「本当初めてだから、落としたらごめんね」

僕はジェットスキーの上から彼女の手を強く引いて、持ち上げながら言った。

 


ジェットスキーの鍵は落水した時に直ぐに外れて動力を停止しなければならないため、半分になったプルタブのような独特の形をしている。

アンカーの紐を外すと、少し強めに鍵を取り付けてエンジンをかけた。

後はハンドルについている、自転車のブレーキレバーによく似た形状のアクセルを引き込めば推進する。車や自転車のようなブレーキはない。海水との摩擦でアクセルを離すと自動的に減速するのだ。

 


「ねぇ、さっきさ」

僕は気になっていたことを質問した。

「あいつとバンドしてたの知ってたけど、なんで?」

彼女は、僕と同じ高校を受験したが不合格だった。

あの冬の日、合格発表の掲示板を見てボーっとする彼女の姿を思い出した。


「え?見に行ったことあるよ、何回か」

彼女が僕の腰に手を回した。

振り返ると、思った以上に彼女の顔がすぐそばにあって驚いた。

「隠れて、だけど」

 


客観的に見れば僕らはただのクラスメイト、だった。それは間違いなかった。だけど、2人の中でそれを見るとどうだっただろう。

 


僕らの中学は、授業が全て終わると、掃除の時間だった。

男子のほとんどは渡り廊下でピンポン野球をしたり、鬼ごっこをして遊んでいたので、必然的に真面目な生徒か、女子しか掃除をしていなかった。

しかし、僕はいつもキッチリと掃除していた。

割り当ては定期的に変わるのだが、僕はいつもベランダの掃除をした。担当に頼んで何度も変わってもらっていたので、そのうち永世ベランダ掃除担当に任命された。

理由は、単純に雑巾掛けをしなくてよかったので楽だったからだ。しかしそのうち、彼女が掃除の合間に外を見に来ることに気づいて、それからはその為にベランダ掃除担当を死守した。

もちろんみんなには前者の理由しか話したことがない。


彼女はいつも掃除の終わり頃にフラリと現れて、窓際に立つと何を言う訳でもなく、外を見ていた。

僕は彼女がやってくると掃除の手を止めて彼女と一緒に黙って外を見たり、彼女の様子を伺ったりした。


たまには少しだけ話をした。


別になんて言うことはない。誰かの噂話とか、部活のこととかだった。

 


中2の終わり、2月頃だったと思う。

締め切った窓の向こうのベランダで僕は無心に砂を集める作業に勤しんでいた。いつも思っていた。この砂はどこからやってくるのか、と。

これだけ毎日頑張っていても翌日には掃除するのに十分な砂と埃の塊が転がっていた。


そのうち、彼女がやってきた。

いつもはベランダの入り口の窓際にいるだけだったが、その日はとても寒かったせいか、ベランダに降りて入り口の窓を閉めた。


「さむっ」

「こなきゃいいじゃん」

 

フッと僕らは笑ったが目を合わせることもなく、いつものように外を見ていた。

しかし、別に見るところはなかった。向こう側に工作室があって知らない誰かが掃除をしていた。

 


しばらくそのままそうしていたが、彼女が小さな声で唐突に言った。

「もう3年だね」

「だね」


「塾、どこ行ってる?」

「え、行ってないけど」


「うちのとこ、結構いいよ」

彼女の話では僕の仲のいい友達も数人いるし、授業の内容もいいらしい。


「あたしも、来てくれると楽しいし」


件の塾に体験入学に行った時も友達の誰にも彼女から誘われたことは言わなかった。

家からは少し離れていたが自転車で通った。


たまに、部活帰りの彼女と一緒になることがあった。僕は自転車を下りて一緒に塾まで歩いた。


3年になってクラスが別になると、学校で彼女を見かける機会がめっきり減った。


ある時、彼女が学校の廊下を歩いているのを見かけた。僕は彼女の少し後ろを歩いていた。

特に何かをしようとしていた訳じゃない。たまたま行く方向が同じだった。

彼女が突然くるりと振り返り、僕を見て言った。


「やっぱね。そうだと思った」

フフフと笑うとスタスタと自分のクラスに走っていった。


僕は彼女に恋をしていた。

彼女はどうだっただろう。

 

 

 

免許を取って数回目の運転は特に問題なかった。

寧ろ友人の大きなジェットスキーが運転し易く、これまでで1番安定していたように思った。

中学生のカップルも適度に怖がらせられたようでとても安心した。

友人と、友人の職場の先輩達はいつの間にか酒盛りを始めていた。

戻ってきて戸惑ってる僕に後輩が気まずそうに言った。

「いや、なんかもう行かないらしいっす」

笑った。どうせ明日も休みだしな。まぁ楽しければなんでもいい気がした。

 

 

 

3年の1学期に僕は人生で初めての、所謂、モテ期を体験した。

なぜなのか本当にわからないが色んな人から告白された。

修学旅行が近かったので自由行動の時の相手を探すためになんとなく3年全体がそういう空気になったことも一因かもしれない。


僕は全員の申し出を断った。


しかし、そんなことがあったことで僕は少し、自分に自信が持てた気がしていた。

そして、彼女に告白することを考えた。

 


塾の帰り、彼女はいつも親の迎えを待っていたので、僕はわざと課題が終わらないフリをして、他の人がいなくなるのを待とうと思った。


しかし、彼女の友人がずっと彼女と話し込んでいて、とても帰るようには見えなかった。


「ねえ」


別に誰かになんと思われよう構わない、くらいの覚悟はしていたと思う。僕は話に割り込んで彼女に声をかけた。


「修学旅行の自由行動、どうするの?」


彼女は驚いた顔で僕を見た。

彼女の友人が僕と彼女を交互に見ながら「えーっと、それって」と気まずそうに言った。


「もう、誘われてる」

彼女は僕の目を突き刺すように見て、サッカー部の男子の名前を言った。


「そっか。別に、誘ってないけど」


僕はその後、部活帰りの校舎裏で、泣きながらもう一度改めて告白してきてくれた女の子と付き合うことにした。 

友人が好きだった女の子だった。とても可愛らしくて素直な、優しい子だった。

 


無人島に友人達が置いた荷物がそのままになっていることを思い出した。

明日でもいい、とみんな言ったが、僕はまだ酒を飲んでいなかったし、どうしても彼女に確認したいことがあった。

彼女が無人島までついてきてくれるならついでに片付けてしまおう。


トレーラーハウスに行くと、彼女が何やら料理を作っていた。

僕はしばらくその様子を眺めていた。

 

「あっごめん、もう閉めようと思ってるよ」

彼女が僕に気づいて言った。おそらく飲み物を頼もうとしていると思ったんだろう。

 

「え、もう帰るの?」

「うん。子供迎えに行かないといけないから」

「あーじゃあそれって」

僕は彼女が作っている料理を見た。

「うん。近いから一旦ここで食べさせて、実家に連れて行こうと思って」

「ふーん」

「あ、なんだった?」

「少し話したいなぁと思って」

「なによー愛の告白?」

彼女が冗談っぽく言った。

「っていうより、この場合、答え合わせに近いよね」

僕達の場合、そう表現した方がしっくりくる。

 

彼女も思い当たるところがあるのか、特に何も言わなかった。

 

「鍵、一旦締めるけど、また戻ってくるから、その時ね」

彼女は軽自動車に乗ってどこかへ行ってしまった。

 

僕がみんなのところに戻ると大爆笑が起きた。

「フラれたんか」

ハハハと僕も笑った。

「どうなんでしょ。断られたけど、フラれてはないです」

「マジ強すぎ、不屈の精神っすね。月月火水木金金!」

「え?そんなんだっけ、それ」

僕は後輩のツッコミをいなした。

 

 

僕は彼女に恋をしていた。

これは間違いなく事実だ。

彼女も僕に恋をしていた。

もし、それが偽なら修学旅行での彼女の行動の説明がつかない。

 

 

修学旅行の自由行動で僕は新しく出来た恋人と待ち合わせをした。那覇市内の散策だった。

僕たちはハンバーガーを食べたり、お土産を見たり、公園に当たり前に植えられたちょっとグロテスクとも思えるほど根の絡まったガジュマルの木を見て過ごした。


友人達とも約束をしていたので、頃合いを見てその子と別れた。

ちょうどその子の仲のいいグループが近くにいたためだ。


僕は友達を探して商店街を歩いた。

商店街は広かったが、同じ中学のほとんどみんなが通り一本に集まっているようだった。


知り合いばかりで混み合った大きなおみやげ屋の中で、携帯のストラップを見ていた彼女を見つけた。

一人でいるようだった。

 

「ねえ」

あれ以来、僕達は話していなかった。

僕は友達を見かけていないか聞く口実をつけて声をかけた。また自然に話せるようになりたかった。

彼女がこちらを振り向くと、その瞬間、真っ赤な顔をして僕の方にズンズンと歩いてきた。

そして、どん、と僕にぶつかって、言った。

「なんで」

彼女はつぶやくように続けた。

「見たし」

僕の胸あたりにちょうど彼女の頭があった。

「何を?」

僕と恋人が一緒に歩いているのを。

そう言うと彼女はどこかに歩いていこうとした。

僕は彼女の袖を掴んで引き止めた。明らかに彼女は怒っていた。

「なんで?誘ったじゃん」

彼女は僕の手を振り払った。

「誘ってない、って言ったよ」

 

「いや、それは」

君が別のヤツから誘われてるって言ったからじゃん。僕は君を諦めようと思ってーーー

 

言いかけてやめた。

僕はもう恋人の告白を受けて入れてしまっていたのだ。今更、何を彼女に言い訳する気なのだろう。

 

唇を噛んで彼女は僕の言葉の続きを待っていた。

けれど僕は、目線を逸らせて踵を返した。

あの時、確かに僕は僕の意思で彼女の元を去った。

 

後から知ったが、彼女を誘ったサッカー部の男子は誘ったその時に断られたらしかった。

あの塾での夜、なぜ彼女はあんな風に答えたのか、どんなに考えても理由がわかならかった。

 

僕と恋人はそれからも長く付き合った。

同じ趣味もあったのでそれなり楽しく過ごせていた。

サッカー部の男子が彼女に告白したと噂で聞いた。結果は聞かなかった。

 

夏が過ぎて秋になった。

塾の終わりに、僕はすぐ近くの公園で覚えたての煙草を吸っていた。


そこに彼女がやってきた。

「うわ、ふりょー」

修学旅行以来、久しぶりに彼女が僕に声をかけた。
僕は煙草を消してベンチから立ち上がった。

「あれ、迎えは?」


「なんか先生、用事あるんだって。追い出された」


いつも彼女は塾の中で迎えを待っていたが、今日は塾を閉めなければいけないそうで、ここの公園で迎えを待とうとしているようだった。


とは、言ってももう陽は落ちて辺りは真っ暗だった。


「送ろっか?」

「え?」

「友達に送ってもらうって電話しなよ」

「いいよ、いいよ。あたしんち遠いし」

「じゃなくて、送りたいんだよね。話したいし」


僕は自然にそう言っていた。

確かに話したいことがたくさんあった。

多分、そのどれも、もう取り返しがつかないだろうけど。


僕のボロい赤い自転車は至る所からギコギコと苦しそうな音を上げていた。

話したい、と言ったくせに彼女を自転車の荷台に乗せると何も言葉が出てこなかった。

 

苦し紛れに、僕は自転車を漕ぎながら口笛を吹いた。

この曲は彼女と、僕の名前が歌詞の中に入っていた。1人になると僕はよくこの歌を歌った。

有名な曲だったが、歌詞の中にあからさまにあるのではなく、文節などを無視すると、そうなる、というだけの片思いの想像力が生んだ苦すぎる思い込みみたいなものだった。


「え、それ好き」

彼女が唐突に言ったので僕はピュー?と返事のような口笛が出た。


「あ、そうなんだ」

「この曲ね、あたしの名前が隠れてるんだ」

「へー」

そのすぐ後に僕の名前も隠れているのだが、彼女は気付いているだろうか。

 


彼女は細い声で歌い始めた。

「ね、ここ。ほら、あたしの名前」

僕は、本当だー、と気の無い返事をした、


そして、彼女は続きを歌った。

「で、ほら、ここ」

僕の名前。

 

彼女が僕の名前をメロディに乗せて歌った。

「ね?すごくない?あたし達の歌」

 

彼女の名前の部分は比較的わかりやすいのだが、実は正確にいうと、僕の名前はこの曲には出てこない。歌手の発音がそう聞こえるのだ。さらにAメロの終わりとBメロの最初の文字を合わせる必要があって普通は絶対に気付かない。

 

彼女が僕に特別な想いがない限りは。

 

その瞬間、自分でも思っていないほどの大量の涙が、嗚咽を伴って流れ出てきた。

なんで、なんで。


「誘ってるつもりだったんだよ」


僕と彼女は事実だけ見れば、本当に話した記憶が少ない。

しかし、僕は彼女とたくさん話したような気がしていた。結局思い出しても事実としては話していないので、彼女とベランダで風景を見ている間、いろんな言葉を頭の中で交わしていたのだろう。

彼女は黙って僕の背中をさすっていた。

僕はしばらく自転車を漕ぎながら泣き続けた。


もう少しで彼女の家に着く、という時に通りの自販機の前に止まった。

「家まで行ったら親に見られるかもしれないから」

僕はそう言って、その自販機でジュースを2つ買った。

1つを何も言わずに彼女に渡し、もう1つを自分で飲んだ。


「ありがと」

彼女はそう言って受け取ったジュースを鞄の中にしまった。

自販機の白い光で彼女の顔が照らされていた。彼女も頬を真っ赤にして泣いていた。

お互いの顔を見ると、フッと息が漏れて、笑いあった。

「ださ」

「マジで意味わからん」

彼女は僕の手からジュースのペットボトルをひったくると、コクンと一口、小さく飲んだ。

そしてすぐ、僕の手に押し付けるようにペットボトルを返した。


「いいよ、今は別に。最後に一緒にいられれば。同じ高校、目指そうね」

彼女はそう言って家のほうに向かって歩いて行った。

 

 


彼女の子供はとても可愛い男の子だった。

最初は彼女の後ろに隠れて中々出てこなかったが、僕がニヤニヤしながら手品を見せると徐々にこちらに近づいてきた。そのうちすぐに僕の膝の上に座って宴会の輪に加わった。


しばらくして彼女が子供を呼んだ。

僕は嫌がる彼を抱き上げて、彼女の元に運んだ。


「ありがと。もう帰らないと」

「うん」


男の子を下ろして、彼のお母さんである彼女に引き渡した。

そして彼女の真正面に立った。

「答え合わせ、だっけ?いいよ、今して」


「これから仕事?」

おそらく彼女は飲み屋で働いていると思っていたので聞いた。

彼女は男の子の頭に手を置いて、うん、と言った。


結婚は?

聞かなかった。

なんとなく想像がついたし、おそらく話したくはないだろうと思ったから。


「なんであんなこと言ったの?」

僕はずっと聞きたかったことを口に出した。

「え?何が?」


「塾で。修学旅行の自由行動」

僕が一緒に行こうって誘おうとしてたのに、なんで制するように、一緒に行く予定のない男子の名前を出したのか。

彼女は、しばらく思案して、あー、と言って笑った。

「あれね、好きだったんだよ。一緒にいた子が」

彼女の話ではあの時、一緒にいた彼女の友人が僕のことを好きだったらしい。

僕もなんか全部腑に落ちて、あー、と言って笑った。

「モテモテだったもんね。あの時」

彼女は意地の悪いニヤケ顔で言った。


「だけどあの時、本当に好きだった人とはうまくいかなかったよ」


僕がそう言うと彼女は目を泳がせた。

そうしておみやげ屋で僕の言葉の続きを待っていた時と同じように唇を噛むと、少し黙った。


「やっぱ、あの時。あたしのこと好きだった?」

 

今の記憶を持ったまま、もしもあの頃に戻れたら、その先で僕を待っている、今の僕を構成する色んな出会いや出来事を全て捨てて、彼女との未来を選択するかもしれない。


だけどあの頃に戻ることなんて絶対にできないから、僕は後悔も苦さも一緒くたにして、今の間違ってるかもしれない選択に、覚悟を決めて生きていきたいと思う。


そう思って繰り返してきた選択ならば、僕は、あの頃の僕の選択を信じてあげたいと思う。


そして、あの頃の僕と彼女に、それでよかったよ、と言ってあげたい。

 

僕は少し溜めて応えた。

「いや、全然」

「うっそー、絶対嘘」

彼女が吹き出した。

「うん、嘘」

「だよね」

しばらく黙って見つめあった。

彼女の髪が風に揺れていた。

「じゃあね」

「うん、バイバイ」

 

こうして僕達は別れた。

長すぎる初恋の終わりだった。

 

 

 

東京へは1日早く、戻ることにした。

東京で待つ彼女が本当に体調を崩したらしい。

 

家に泊めてくれていた後輩は、「もう絶対に帰ってこないで下さい。いなくなるのが寂しいから」と言ってふて寝していた。

 

夕方、東京のマンションに着くと、彼女がベットの上で毛布に包まって泣いていた。

真夏に毛布はさすがにヤバイと思い、心配したのだが、体調が悪いのにすごく嫌な、悪い夢を見た、と言った。内容は教えてくれなかったが、しきりに地元での僕の行動を聞きたがった。

彼女は昔からたまに、信じられない第六感を働かせることがあり、なんだか今回もそれに似た何か、な気がした。浮気なんてしたらどうなるんだろうか。

夜にはケロッと元気になった彼女がまた、しつこく帰省中のことを聞いてきたので、僕は、自分史上2番目の強敵を倒してきた、と冗談交じりに伝えた。

 

不自然だったが彼女はそれ以上何も聞かなかった。

 

僕史上最強の敵は君だ、とまで言っていたらおそらく勘のいい彼女のことだ。色んなことを察してしまったかもしれない。

もしかしたらもうすべて察したからこそ聞かなかったのかもしれないが。

とにかく、残りの休みは彼女とゆっくり過ごそうと思った。