しあわせは、うまいぼうのかたち
ある日、妻が僕のサイフのおこづかい制を主張してきた。
僕と妻は共働きで、それまで家計は適当に場当たり的なやり繰りをしていた。
反対する理由は特になかったので、僕も深く考えずに銀行のカードや諸々をすぐに渡した。
正直、うちはお金には困っていない。
金銭感覚はひどいものだが、金を浪費する趣味もないし、まあ、それなりに稼いでいる。
それから2ヶ月くらい忘れていたんだけど、サイフの中に3000円しか入っていなくて、その日飲み会があったので、妻におこづかいが欲しい旨を伝えた。
「僕のおこづかい、いくらなん?」
「5000円」
「へー」
妻は、トットッと、サイフを取りに行き、中から1000円札をおそらく5枚、取り出した。
「え、もしかしてこれ、1ヶ月で、ってこと?」
「うん」
「へー」
朝の妻は器用だ。
フライパンで卵を焼きながら、コーヒーを淹れ、チラリとニュースにコメントをし、合間に身支度を整える。キッチンにいたかと思えば、僕がタバコを吸う間に、化粧台でアイラインをひいている。
彼女が好んで着るロングカーディガンの裾がヒラリ、ヒラリと揺れて、蝶の羽のようだ。
へー、じゃないが。
僕はスマホを顎にあて、ただ何もない宙空を見つめた。
少なすぎないか。
「いってきまーす」
僕がうかうかしている間に、小さなお弁当箱に朝食を詰めた妻は今日も元気に出勤したようだった。
地下鉄のホームへ向かう長い階段を下りながら、僕は今朝の出来事について考えていた。
確かにうまい棒基準で考えると、十分ではある。
平日に10本、休日に20本、嫌なことがあった日は50本やけ食いしてもいい。
味のバリエーションも豊富だ。たこ焼き味が群を抜いている感はあるが、マニアックな店に行けば端っこのカリカリがおいしいキャラメル味などもある。納豆とかいうダークホースもあれば、定番のコンポタ味さえ揃っている。万全だ。
しかし、それは僕がうまい棒星という惑星で出生していた場合に限る。
うまい棒の咀嚼によって、ニコチンとカフェインを体内で生成でき、アルコールのように酩酊し、余暇に必要な満足感とストレスの低減が行える、うまい棒星人であれば全く問題ない。
ただ、僕はうまい棒星人ではないし、今日行われる会合もうまい棒の新味発表会ではない。
ヒトなのだ。それもどちらかというと消費活動に旺盛な。
5000円という金額は少ない。 明らかに少ない。
僕は強い憤りを感じ、はたと立ち止まった。
後方を歩いていたサラリーマンの群れが大きく迂回し、迷惑そうに舌打ちした。
平均よりはずっと稼いでいるはずだ。
うまい棒はその名の通り確かにうまいが、それしか嗜好の幅を持てないのはおかしい。
タバコも買いたいし、コーヒーだって飲みたい。ガムを買ったっていいはずだ。僕は妻に一言物申さなければならない。
さっきまでとは、打って変わってズンズンと力強く歩いた。怒りによる真っ赤なエネルギーが身体中に溢れていた。
しかし、いくらが妥当だろうか。
僕は交通系ICカードを改札機にかざしながら思った。
僕はもう、どこかの部分では大人になっていた。
怒りに身を任せることなど、選択肢にそもそもない。数十時間後に訪れる、妻とのやり取りをイメージしていた。
謝罪はしないまでも、おそらく妻は僕の要求を飲んでくれるように思う。僕としても彼女の申し訳なさそうな顔を見たいわけではない。ただ一言、うまい棒500本は流石にないよね、と言って欲しいだけだ。
おこづかいの金額とは、年収に比例するのだろうか。それとも年齢か。
つり革にも掴まらず、腕を組んだまま肩にかけたバッグからスマホを取り出した。動き出した電車で、ぐらりと揺れた。
どちらも因果関係があるだろうが、まずは相場を知る必要がある。
早速、「夫 おこづかい 相場」と検索した。
一般的には2〜3万程度であるようだ。
まあわかる。この辺りからスタートするのも悪くない。僕の場合、諸々の必要な出費があるので更にプラスもあり得る。これは戦える。
すぅっと肩の力が抜けた。
勝ち筋が見えた瞬間に、今度はどんな勝ち方をするか、考え始めてしまう。これは品位のある癖だとは思っていない。しかし、何度も救われた。
そもそも、この場合に僕が目指すべき最大効率の戦果は何だろうか。
わかりやすいもので言えば、金額。可能な限り大きい金額の獲得を目指すスタイルだ。
しかし、これはどうだろう。結局、家計が僕の無駄遣いに浪費されることを意味する。
そうか。
と、すると僕の勝ちとは何だろうか。
彼女との幸せな生活だ。
なるほど。間違いない。
僕もどこかで譲歩する必要がある。
ふと気づくと会社に最寄りの駅に着いていた。
僕は電車から降りるという動作に一切の思考と判断を使用しなかった。
社会というシステムの中にプログラミングされたサラリーマンというモジュールに、もう戻っていた。
妻の立ち位置から見た時の最大の勝ちとは何だろうか。恐らく僕と遠くはない。
つまり、僕と彼女は立ち位置が違うだけで同じものを見ている可能性がある。
ならば彼女も僕の幸せを考えてくれているはずだ。
では、なぜ5000円なんて言ったんだ?
ザワザワと嫌な予感がした。
僕は重大な見落としをしているのかもしれない。
僕にとって安い金額だと感じた、5000円が彼女にとって大金だったとしたら。
僕が知らなかっただけで彼女のこれまでの人生が、5000円で十分な幸福を感じられる、慎ましいものであったとしたら。
僕が毎日、なんの気にもかけないどころか一口飲んだだけで捨てていたコーヒーも、なんかカッコいい感じがする、という人に話したことがない、恥ずかしい理由で噛み続けていたシュガーレスガムも、これまたほぼ同じ理由で買ったアイコスも。
無駄、いや、それは間違いなく、彼女への裏切りである。
僕は今まで一度だって彼女を裏切ろうなどと思ったことがなかった。
しかし、夜に輝く美しい月の裏側がボコボコと醜い永久の暗闇であるように、角度が違うだけで、僕の怠惰な幸せは彼女の不幸へと着地してしまおうとしていたのだ。
それは、僕自身の目的からも離れていく行為である。まだ、正せるはずだ。
そう、僕と彼女が幸せになるためにーーー
駅ビルの窮屈な細い階段を登ると、地上に出た。
僕は眩しさで思わず顔をしかめた。しかし、長い暗闇を抜けた僕の心は澄み渡っていた。
今日は飲み会を断るつもりだ。今日は誰より妻と過ごしたい。サイフの8000円は酒を飲むには少ないが、うまい棒を買って帰るには多すぎる。
オフィスにつくと、会社で最も信頼する後輩が気だるそうにエナジードリンクを飲んでいた。僕は日頃から多くのことを彼と共有していた。
僕は挨拶もせず、ニヤニヤしながら彼をすぐそばで手招いた。
耳打ちする合図である。
彼も悪い笑顔で僕に近づいた。
僕はこの、一大発見を出来る限り人に聞かれないようにコソコソと言った。
そう、僕の幸せを願っている妻が、5000円という一般的に低すぎる金額を提示してきた理由。
ロジカルに考えるとこれしか答えが存在しない。
「いやね、僕、気付いちゃったんだけど、うちの奥さん、うまい棒星人だったわ」
「は?」