午後、6畳の部屋は薄暗く、僕はソファに本を置く

本ブログはフィクションですが、一部隠し切れない真実を含みます。

トイレでの一件

僕は口笛を吹いていた。

 

トイレの個室で。しかも会社の。

 

何故そのような愚行に至ったのかは今となってはもうわからないが、16小節くらいは吹いた。高らかに。題名は知らないが北斗の拳のユッアッショーのやつを。

 

半分無意識だったので自分がそんなことをしている認識はほぼなかった。

なんというか、している認識はあるんだけれども理性は働いていなく、ぼんやりとしているという状況なんだと思うが、あんまりそういう状況の経験がないのでよくわかっていない。

 

とにかく僕自身が僕のその行為に気づいたのは何処からともなく僕以外の誰かがユッアッショーのユッアッショー部分だけを遠慮がちに口笛で吹いたからである。

 

その瞬間、ビックリしすぎてピュー?っと返事のような口笛を吹いてしまった。

 

僕の口笛が止むとトイレは換気口の小さなゴォーという音だけが響く、表面上の安寧を取り戻した。

 

もらい口笛、だと思う。

僕が無意識にも高らかに口笛を吹いていたせいで、おそらく大便中の誰かも無意識に吹いてしまったのだ。

 

僕自身、心臓がバクバクしていた。

自分自身が無意識に口笛を吹いていたことに気づいてとても恥ずかしいと感じたからだ。

 

会社の男子トイレには大便器の個室が4つほどある。

僕は向かって1番左端の個室にいた。

つまり現在便座に座っている状態の僕から見て左側に他の3室がある状況だ。

 

僕は彼が何処の個室にいるのか知らないが、おそらく僕以上に恥ずかしい気持ちなのではないか、と思った。

 

まず、ノッてしまったという点。

おそらく僕の口笛を彼は最初、ビックリしながらも黙って聴いていたと思う。

そして、「とんでもないクレイジー野郎が入室してきたぜ」と思ったはずである。鼻で笑った可能性もある。

しかし、僕の口笛は高らかで、無意識からくる清らかさもあり、仕事中の疲れた心にそっと入り込んでしまったのだろう。次第に音楽としてノッてしまっていたことと推測される。

僕の口笛が上手いことも一因だと思う。小1で吹けるようになってからというもの毎日練習していた僕は、吹き出す息だけでなく、吸い込む息でも音を鳴らせるのでブレスを必要としない。また、高音は歯笛に瞬時に切り替えることによって、まるでファルセットのように裏返ることが可能だ。腹式呼吸によるスタッカートも自在であるため、ユッアッショーのようなロック調の音楽のキレにも対応でき、まるで黒人が街角で刻むジャンベのリズムのような緩くも鋭いグルーヴが否応なしに生みでてしまう。

ただの口笛が音楽になってしまったのは僕に非がある。

 

そして次に、僕がリアクションをしてしまった点。

前述のように僕の口笛は無意識ながらも音楽であったことが推測されるが、彼が吹いた口笛に対しての僕のリアクションはピュー?という口笛だった。

 

わからないと思うのでもう一度言うと、僕のリアクションは音楽ではなく、口笛だったのだ。

 

例えば空港の広場でバリトンサックスを吹いている外人がいたとする。そこに通りがかりのピアニストがやってきて、備え付けのグランドピアノを弾いたとする。

このストーリーでのこの後の正しい反応は一緒にセッションをする、であると思う。

つまり、音楽には音楽を返す必要がある。

 

しかし、僕は自分なりの精一杯の音楽で応えたかもしれない彼に対して、ピュー?という口笛を返してしまったのだ。

もちろんこれにも僕の非がある。

僕が無意識だった、というのが最大の理由だが、意識的にトイレで口笛を吹くことは今後ないので無意味な反省ではあると思う。しかし事実としてそれは屹立しているのだ。

 

 

「すみません」

 

 

消え入りそうな小さな声が聞こえた。

 

驚いたのはそれが聞き慣れた僕の声だったからだ。

僕は謝罪していた。また、無意識のうちに。

 

 

小さい頃に僕の面倒を見てくれたのはばあちゃんだった。いつも漬物の匂いがしていて、どこにでも軽トラで連れて行ってくれた。

今思えば頭のいい人ではなかったかもしれない。だけど色んなことを知っていて僕に教えてくれた。

ばあちゃんは優しかったし、僕の言うこと誰よりも1番真剣に聴いてくれた。ただ、僕が人のものを取ったり、悪いことをしたのに謝らなかった時はとても怒った。

 

 

亡くなった今でも僕はばあちゃんのことが大好きだが、今この時においてはばあちゃんを恨むしかなかった。僕を謝罪できる人間に育ててくれたことに。

 

今回のこの状況で僕が謝ってしまったのは条件反射的に公平さを測ってしまったからだと思う。

しかしそれには何の利もない。むしろマイナスしか生まない。

 

僕は声を発することで特定されるリスクを負ってしまった。会社のトイレで超絶テクの口笛を吹く男というレッテルを貼られてしまう可能性が生まれた。まぁそのレッテルには事実しか書かれていないが。

 

もらい口笛をしてしまった見ず知らずの彼にとっては、僕が彼のもらい口笛を認知していることをその謝罪によって改めて痛感させられ、特に向け先の見当たらない謝罪をどう受けとればよいのか、という苦しみが生まれてしまった。

 

大人になれば誰でも、グレーなまま一旦置く、という選択肢を持つことになるが、今回の場面では狡猾にそのカードを切るべきだった。しかし、僕は謝ってしまった。

 

 

ピュッピュッピュー、ピュピュ、ピュピュ、ピュピュッピュピュー

 

 

高らかに北斗の拳のあの曲が聞こえた。

僕は理解が追いつかなかった。身体を縮こめたままその拙い口笛を最後まで聴いた。

 

念のため、こっそり親指で自分自身の唇に触れたが、僕は吹いていなかった。誰かが北斗の拳を口笛で吹いていた。

 

 

「なんでやねん」

 

 

ドスの効いた低い声だった。

もう一度念のため、親指で唇に触れたがもちろん僕は喋っていない。

意味がわからなかった。もうとにかく意味がわからなすぎて、フフッと笑ってしまった。

 

そして左隣から続々と同じような鼻息が聞こえた。

何人か、いる。

 

僕はサッサっとトイレの事後処理をして個室から出た。手を洗っている時に個室に目をやると僕が退出した場所以外全てが埋まっていた。

 

 

 

僕は自分のデスクに戻って先ほどの出来事を整理した。

 

1.最初に口笛を吹いた

2.次に口笛を吹いた

3.すみませんと謝った

4.さらに口笛を吹いた

5.なんでやねんと突っ込んだ

 

まず確定しているのは1と3が僕による動作であることだ。

流れ的に判断するのであれば以下が自然だ。

 

1.最初に口笛を吹いた

*僕以外の人は驚いた。もしくは異常事態に警戒した。

 

2.次に口笛を吹いた

*うっかり追従してしまった。吹いた本人も周りの人も驚いた。

 

3.すみませんと謝った

*周りの人は追従した人が謝ったのか、最初の口笛の人が謝ったのか判断できない。しかし、どちらにしても常識的な人がうっかりしてしまったことが伝わった。

 

4.さらに口笛を吹いた

*思ったほどの異常事態でないことがわかり、これまでの流れを静観していた人が面白半分に吹いてみた。

 

5.なんでやねんと突っ込んだ

*上記の流れを瞬時に把握した人が4に対してツッコミを入れた。

 

 

おそらくこれであろう。

もしこうだった場合、特筆すべきは5の動作を行った人物だ。

まず、第一にここが九州であるにも関わらず、なんでやねんという関西的なツッコミを入れた部分。

このことからこの人物が普段は率先して面白いことをするタイプではないが、休みの日に吉本新喜劇とかを楽しみにしている、少し固く、古いタイプの人物像であることが推測される。

笑いに対するテンプレートが少ないため、聞き慣れた関西式のツッコミが出てきたという推理だ。

 

次に当事者である僕自身がその状況を飲み込めていなかったにも関わらず、一瞬でその流れを把握するだけの対応力がある部分。

前述の推理から50代くらいのおじさんをイメージしたが、得てして出世するのは頑固よりも、柔軟なタイプであると思うので、この適応力の高さは幹部社員である可能性が高い。

 

単純に場所的な有利はあったのかもしれない。僕が1番右端にいたとすると、この人物は真ん中に辺りにおり、左側から別の口笛がすれば状況の推理ができる。

 

ーーーと、考えていると唐突に社長がオフィスに入ってきた。

 

そして出張から戻ったばかりの部長に何か知らないプロジェクトの計画の不備を責め始めた。話を要約すると社長が一回オッケーを出したけどよく考えたらダメだったわ、みたいな話なんだけど、自分がオッケー出した癖になぜか部長が怒られているという構図であった。

 

正直、なかなかの無茶理論だったので横で聞いていた僕はニヤけるのを我慢していたのだが、怒られている当の部長は黙って話を聞いていた。

 

そして、社長の話があらかた終わると唐突に部長が言った。

 

「承知しました。まぁ愛を取り戻せってことですね」

 

社長は眉をピクリと動かすと、ガハハと豪快に笑った。

 

部長が僕を見てニヤリと笑った。