午後、6畳の部屋は薄暗く、僕はソファに本を置く

本ブログはフィクションですが、一部隠し切れない真実を含みます。

「高校の頃、隣の席に不美人がいて、綺麗になろうとして、周りから冷ややかな目を向けられていた」

高校2年の1学期最後の席替えで、ある女の子が僕の席の隣になった。


その子はおそらく何らかの障害で頭頂部の毛髪が少し薄かった。

そして、そのことを差し引いても美人とは言いがたく、彼女の話声をイメージできない程、無口で目立たない子だった。
彼女にはかなり仲のいい友人が一人がいた。イボガエルを上から思いっきり潰したような顔の、色の白い女の子だった。

この子はかなりおしゃべりで、休み時間ごとに遊びに来ては、昨日見たテレビの話や、なんだかよくわからない事をまくし立てるように話していた。

僕の隣の子は彼女の話を、蚊のなくようなか細い声で「うん、うん」と聞いているだけだった。
はじめのうちは声の様子から嫌々ながら彼女の話を聞いているのだと僕は思っていたのだけど、隣の子を見るとニコニコと、本当に楽しそうな笑顔で頷いて聞いていた。僕にはイボガエルの話をそんな風に聞くことが楽しいようには思えなかったのだけれど、きっとそういうのが好きな子なのだろう、となんとなく理解した。


高校2年の夏はあっという間にやってきて、気づいたら終わってしまっていた。
なんとなく慌しいような生活の中で夏休み明けの席替えが終わり、元々影の薄かった彼女の存在は教室という狭いけれど深い社会の中に同化して、そのうち見えなくなった。

 

僕の中で彼女の存在が再浮上したのは、年を越した1月のことだった。


おろした前髪で多少隠れてはいたが、眉毛が全て無くなっていた。
僕は、なんらかの病気の治療の影響なのかと思った。おそらく他のみんなもそう思っていたと思う。その件について話すことがなんとなく憚られて、最初、誰もそのことを口にしなかった。
だが、その推測は間違いだったのだと思う。
これまで、自分の意見を言うことなく、小さな声で「うん、うん」と頷いていた彼女が、イボガエルと廊下で楽しそうにおしゃべりをしたり、学校指定外のかばんを持ってきたりするようになった。スカートも少しずつ短くなっていった。
おそらく彼女は変わろうとしていたのだ。

 

徐々に彼女は陰で「般若」と呼ばれるようになった。「キモチワルイ」と嫌悪する人も少なからず、いた。ただ、人畜無害な彼女らを表立って迫害するような人は誰も居なかった。冷たい視線の中心で、彼女らは相変わらず平穏な日々を過ごしているようだった。

 

3年になって、また彼女が隣の席になった。
髪の毛をわからない程度に染めたようだ。頭頂部は薄いままだった。
ある授業中、隣でひょこひょこ動くものに気づいた。何かと思って見てみると彼女が椅子に座りながら膝曲げたり、伸ばしたりしていた。
おそらく足を細くするための体操なのだと思う。
僕はあの冬、彼女に何があったのか想像した。
彼氏ができた、のかもしれない。恋をした、のかもしれない。だが、なんとなく僕は、彼女が恋をするための努力を始めたのではないかと思っていた。理由は特にない。本当にただの推測だった。
彼女はきっと、これまでの人生の中で目立たない事が至極当たり前すぎて、今回の自分の変化が周囲から注目されていることに多分、まだ気づいてさえいないのではないか、と僕は思っていた。

僕が彼女の変化に気づいていることを、彼女が気づいてしまえば、それを恥ずかしく感じるかもしれない。そうして今度は目立たないための努力を始めるかもしれない。

僕は結局、高校の3年間で彼女と一度も話をしなかった。

 

それから8年程たった頃、僕は仕事で東京にいた。
職場の後輩がどうしてもというので呑みに連れて行った。
この後輩は大の女好きだったが、残念な事にまったくモテなかった。
2件目は彼の同級生が働いているといるというキャバクラへ遊びに行くことになった。
彼は中々の顔らしく、中へ入るとすぐにVIPルームのような部屋に通された。
後輩は、女の子が席につくのを見計らって「俺のおごりなんでじゃんじゃん呑んでな」と鼻の穴を膨らませながら言った。
先輩と紹介された僕の立場が少し悪くなった気がしたが、ここは華を持たせてあげようと思った。
「あれ、○○くん?」
隣に座った女の子が僕の名前を呼んだ。目鼻立ちの整った綺麗な女の子だった。
見覚えはなかった。
「わたし、ほら、高校の時一緒のクラスだった!」
胸元が大きく開いた赤いロングドレスは、色の白い彼女によく似合っていた。
ただ、少し窮屈そうに見えるほど、大きく膨らんだ胸がぎゅうぎゅうと詰まっていて、彼女のあざとさを感じた。

「わからないかなー」

と、彼女が少し不機嫌そうな声を出した。
ただすぐにニコッと笑いながら彼女は左手を口元に縦に置いて、僕の側に寄った。
耳打ちをするようだ。
彼女は、あの子と仲の良かったイボガエルの名前を言った。
僕は驚いて、少し無遠慮に足先から髪の毛に至るまで彼女の全身をもう一度見直した。
イボガエルに胸があったかどうかは覚えていないけど、顔は確実に別人だった。

「セイケイしたの」

彼女はもう一度、そう僕に耳打ちをした。
整形か。僕は納得して、またすぐに驚いた。ここまで変われるものなのかと。
彼女は屈託なくニコニコしていたので、もしかしたら整形は公然の秘密なのかも知れない。だが、もしものことを考えてその件についてはその後、努めて話さないようにした。
彼女は懐かしむように柔和な態度で僕に接した。でもそれがなんとなく居心地悪かった。

 

 

それからしばらくして高校の頃の別の女の友人と会う機会があった。
僕らは渋谷のオープンカフェで待ち合わせた。しばらくは近況を報告し合っていたのだけれど、何かのタイミングで僕がイボガエルに会った話をした。
目の前の彼女は、ふん、と小馬鹿にしたように笑った。

「なんかめちゃくちゃ整形しまくってるらしいね」


彼女とイボガエルは小中高と同じ学校だったらしく、卒業した後もSNS上でしばらくは交流があったとの事だった。
全く知らなかったがイボガエルはある男性アイドルの大ファンで、彼のおっかけをしていたらしい。
「それがもう大変でさ。そのアイドルと付き合ってるって思い込んじゃったみたいなのよね。テレビで女のタレントと話しただけで、SNSリストカットした手首の写真とか載せたりして」
知識としてしか知らないがそういう子達は世の中に間々いるらしい。
「ほら、同じクラスに仲いい子がいたじゃない。般若とか言われてた。あの子が亡くなってからそういうのがエスカレートしたみたいで」
般若。高校2年生の時、隣の席に座っていたあの子の事だ。顔はすぐに思い浮かんだが、名前が思い出せない。

「それからはすぐに上京したみたい。水商売始めて整形しまくって。アイドル関係で結

構大きな事件もおこしたみたいで、ネットでも有名らしいよ。あの子」

「いつ?」

「え?多分二十歳くらいだったかな。ホントに有名になっちゃったから成人式でも話題だったもん」


「いや、あの…般若って呼ばれてた子が亡くなったの」

「え、んー。1年くらいかな。高校卒業して」

 

 

帰りの電車は遅い時間だったせいか、ポツリ、ポツリと人が乗っているばかりで、ガランとしていた。友人とはその後、共通の知り合いがやっている居酒屋に呑みに行った。東京での生活に大分疲れているようでしきりに地元に帰りたいと言っていた。
僕らは今度、イボガエルの店に遊びに行く約束をした。彼女は「ビックリするかな」と言って、ニシシと意地悪そうな顔で笑った。僕は、「多分君の方が驚くんじゃないかと思うよ」と言って別れた。
僕は誰もいない電車のシートの端に座って、ふぅと息を吐いた。
あの子が亡くなったと聞いてから何度も名前を思い出そうとしたけど結局できなかった。
僕はあの子のことを何も知らない。好きな食べ物の事も、あの時何故あんな突飛な事をし始めたのかも。

 

高校卒業を控えた3学期、僕は殆ど学校に行っていなかった。
秋ごろには早々に進路が決まっていた僕は、卒業するのに充分な出席日数を既に取得していたため学校へ行く理由が特になかったのだ。
ある時、友人と遊ぶ約束があったため図書室で借りていた本の返却がてらに登校した。
私立受験組のために授業の殆どが試験対策か、自習だったので、結局僕は授業を受けずに図書室で本を読んでいた。その時、しん、とした図書室にあの子がやってきた。
あの子は僕が座っていた大机のはす向かいに座った。


僕らは話もせず、視線も合わせず、黙々とそれぞれの本を読んだ。
そしてそれが僕の記憶の中での最後のあの子の姿だった。

 

彼女はその人生でどんな恋をしたのだろうか。なりたい自分になれたのだろうか。
例えばもし、彼女が生きていて今この瞬間に目の前の電車のシートに座っていたとしても、きっと僕は話かけたりしないのだろうと思う。そしてきっと彼女もそうだ。僕らは確かにそういう関係だった。

 

けれど、僕は高校卒業後もあの物静かな女の子のことを時々思い出した。
何かのタイミングで彼女の話を誰かにしようとしたこともあった。
だが、結局誰にも話さなかった。
「高校の頃、隣の席に不美人がいて、綺麗になろうとして、周りから冷ややかな目を向けられていた」
話にすれば、それだけのことだ。
ただ、今思い返してみても僕は確かにあの時、彼女の変わろうとする意思を、とても美しいと感じていた。