午後、6畳の部屋は薄暗く、僕はソファに本を置く

本ブログはフィクションですが、一部隠し切れない真実を含みます。

そばはのどごしという人もいるが、僕はあくまでよく噛みたい派

僕はそばが好きだ。
 
ただし、好きなものを聞かれた時、一番最初に「そば」が出てくる程、好きな訳ではない。しかし、間違いなくそばが好きである。
 
うどんか、そばか、らーめんか、と聞かれれば、らーめんなのだけれど、一番頻繁に食べているのはそばだし、具のないらーめんには夢がないが、具のないかけそばには期待を持てる、程度にはやはりそばが好きである。
 
ざるそばも好きだし、東京のそばだしの黒さには辟易したけれども、それでもかなり頻繁に食べていた。健康を意識した訳ではないし、コスト的な問題でもなかった。
ただ、その時そばが食べたかったからそばを選択し続けてきただけのことである。
 
そばのトッピングは何がよいか、と言われてもベストが決められないのは、別になんでもよいからであって、そば粉の割合は何対何が好きか、と聞かれても、あまりよくわからない。意識したことがないし、そもそもそんなに興味がない。
 
結局、僕はそばに対して過剰な期待をしていない。まあまあでよい。
 
だから、当時まだ恋人だった妻が僕の誕生日に、わざわざそばの有名店に連れて行ってくれたときも、それなりに嬉しかったが、違和感ばかりが残った。
そばというのは誕生日のような特別な日に食すようなものではないと感じているのだと思う。駅の改札付近にある、トイレ臭くて埃っぽいようなそば屋にも別に嫌悪感を持たない、というのが、僕の中のそばの認識である。
 
こんな事を言えば、「こいつ別にそば好きじゃないじゃん」と思われるのだろうけれど、そもそも妻がそのように心配ってくれたのは、僕が毎日そばを食べていることに気づいたからで、僕は特にそば好きをアピールした覚えは1度もない事を鑑みると、やはりある程度一緒にいればにじみ出てしまうそば好き感があったからなのだと思う。
 
そば好きであるのはまず、間違いないと思うが、周りを見渡した時にそば好きとしての志が低いか高いかと言われれば、やはりこれはどうしようもなく、志が低いことを認めざるを得ない。たまに、そば好きであることを「徳」のように感じているようなおっさんがいるが、馬鹿にしている訳ではなく、単純にすごいと思う。色々語ってくるし、彼らが言う、通な食べ方をしてみると、実際うまい。
 
そうしてうまい食べ方を知っているのに、それを継続しない、更にうまい食べ方を研究もしない僕なんてものが、そば好きを語るのはおこがましいとさえ感じる。
 
自意識としてもそのようなものだから、これまでの人生でそばが好きであるということを自ら進んで他人に話したことがない。
 
だから、母と妻くらいは知っていると思うが、多くの友人や知人は知らないだろう。
僕がそばを好んで食べる事は、僕のアイデンティティではないが、傾向としての事実である。
 
それなのに、つい先ほど同僚に、「よくそば食べてるよね。すきなの?」と聞かれた折、「え。別にそうでもないですよ」と答えてしまったのである。
 
なんとなく自分のその発言に衝撃を受けてしまって、それから今まで、生まれて初めてそばについて考えたのだけれど、客観的な意見としてはやっぱり好きなんじゃないのか、いや、ただ、程度は他人と比較してみないと計り知れんぞ、と考えた訳である。
 
けれども自分と言う絶対値がありながら、他人と比較する理由がどこにあるのか、傾向的によく食べているなら、好き、で間違いないんじゃないか、とも思える。
 
そこで、本当につい今、質問をしてきた同僚にそばが好きか聞いてみた。
「うん。まあ好きかな」
これまでこの同僚を観察、していた訳ではないが、とりあえず見てきた中では、彼がそば好きである様子は微塵も感じなかった。そう考えると案外、ものの好き嫌いというのはもっと気楽なものなのかもしれない。
 
だが、それまで唯一つの波紋もなかった僕の思考の地底湖に、たった一言でこれだけの大波をたたせておいて、そんな簡単にそば好きを名乗らせんぞ、と思った。